「トルコの大地震のことが、話題にならなくなってしまいましたね」
「WBCで頭の中から抜けていました。すいません。もう、大分経ちますよね」
「2月6日ですから、もう1カ月半以上経つ計算です」
「お亡くなりになった人が多かったですよね」
「そうですね。約5万人ですね。被害は隣国のシリアにも及んでいますからね」
「日本からも救援に行っているのでしょ」
「自衛隊が派遣されています。日本赤十字も救援に駆けつけています。トルコとはもう古い付き合いですからね」
「最初がエルトゥールル号ですか。海難1890ですよね。映画で観ましたし、道徳の教科書にも載っていましたね」
「悲惨な事故ですよね。乗組員の9割くらいが犠牲になります」
「69名の生存者を介抱して、2隻の軍艦で届けたのですよね」
「当時はオスマン帝国ですね。募金を呼び掛けたのが山田寅次郎ですが、彼も一緒に行きます。そして、そのまま第一次大戦が終わるまで滞在します」
「余程、居心地が良かったのですね」
「向こうは驚いたでしょうね。軍艦2隻と義援金ですからね。歓待を受けて、そのまま大使のような仕事をしたみたいですね」
「今だったらあり得ないでしょうけど、当時は良き時代だったのですね。ここから本論です ↓ 表紙は日本・トルコ合作映画「海難1890」ポスターです」
エルトゥールル号の海難事故発生
国と国との信頼関係。そういうことを大切にする国と、そうでない国があります。相手の立場に立って真摯に対応することによってこそ、真の友好が実現します。友好条約を結べば、それで終わりではなく、実はそこからが始まりなのです。
ところで、この事故が起きる頃の国際状況は、欧米列強が植民地競争を繰り広げていた時代です。日清戦争が起きる前なので、日本は不平等条約に悩まされていた時代です。トルコもロシアの南下政策に悩まされており、日本はロシアの海を隔てた隣国ということで、お互い同じような立場にあるということで親善を深めるためにエルトゥールル号で来日したのです。
明治天皇への謁見が終わり、その帰途に海難事故が発生したのです。
(「串本町」)
2010年は「トルコにおける日本年」元年
遭難事故の翌年に墓碑と追悼碑が建立されます。そして、1929(昭和4)年に、昭和天皇がこの地に行幸されます。それを聞いた当時のトルコのアタテュルク大統領が感激して、1937年に慰霊碑が建てられています。現在も5年に1度、駐日トルコ大使館共催での慰霊大祭が執り行われています。
エルトゥールル号遭難事件から120年になる2010年を「トルコにおける日本年」と定め、トルコにおいて1年間日本文化の紹介をするイベントを展開してくれたのです。
ハイライトなイベントは両国を結ぶコンサートということで地元和歌山県から向山精二氏が参加し、「エルトゥールル号追悼記念」のオーケストラ演奏の指揮を執ったのです。このコンサートは大阪、東京、メルシン、アンカラ、イスタンブールで行われ、いずれも盛況だったそうです。
(「外務省」)
トルコ航空でイランを無事脱出することが出来た
人には親切にするもの、そして、それは国に対しても同じだと思います。エルトゥールル号の「恩返し」のようなことが、1985年3月「トルコ航空による日本人救援」というかたちであったのです。
そもそもの発端は、1980年のイラン・イラク戦争です。イラクがイランに侵攻して戦争が始まります。1985年にイラクのサダム・フセインが「民間機といえどもイラン領を通過する航空機は撃墜する」と宣言。在イランの外国人が一斉に脱出します。
在イランの日本人も脱出のため空港に行きます。ところが、当時の日本の航空会社は、JALもANAもイランに乗り入れていなかったのです。欧州各国の航空会社は自国民優先ということで断られてしまいます。
その時に伊藤忠商事のイスタンブル支店に勤務していた森永堯(たかし)氏に東京本社からトルコ政府にトルコ航空の救援機を出してもらうよう依頼せよという指令が来ます。それで彼がオザル首相に電話をして、トルコ航空がイランに滞在する日本人の脱出を助けてくれたのです。
(サダム・フセイン/Wikipedia)
読んでいただきありがとうございました。
よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。
↓