
「前回の参議院選挙で共産党が獲得した議席はわずか3議席でした」

「非改選の4と合わせて7議席になりました。衆議院の8議席とあわせて15議席が現在の共産党の勢力です」

「以前と比べて減ったという印象を持っています」

「かなり減っています。例えば、1998年参議院選挙では比例で過去最大の819票獲得して、15議席(比例8、選挙区7)でした」

「そういう時もあったのですね。98年は私の小学校の頃ですね」

「その頃は、自共対決と言っていましたからね」

「その勢いはどこへ行ってしまったのですか? 党員の数が減ったからですか?」

「会社も組織、政党も組織、人間の身体も組織で出来ています。組織なので、いつかは衰えていくものです。永遠に存続することはあり得ません」

「創立して103年ですものね。仕方がないということでしょうか?」

「そうですね。組織的にも、理論的にも限界に来ていると思っています」

「前回は組織の話でしたが、今日はその理論的な分野で何か話をしていただけるということでしたが、テーマは何ですか?」

「『資本論』の批判的検討で行きたいと思います」

「マルクスの『資本論』はかなり難解だと言われていますが……」

「コミュニストにとってバイブルのようなものですが、時代遅れになってしまった部分があります。そのいくつかについて語りたいと思います」

「ここからが本論です ↓ 表紙は「www.amazon.co.jp」提供です」
『資本論』の冒頭部分から問題あり
『資本論』の冒頭部分を紹介します――「資本主義……社会の富は『巨大な商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現れる。したがって、我々の研究は商品の分析をもって始まる」。有名な書き出しで始まりますが、この最初の出足の部分から、この書が時代遅れになってしまったことが分かります。
マルクスは資本主義の原点は商品だと言っていますが、サービスについて何も触れていません。商品は見える財であり、サービスは見えない財です。見える、見えないの違いがありつつも両者は市場で取引きされています。そして、現代社会では、商品よりもむしろサービスの取引総額がはるかに大きいのが実際のところです。例えば、クラウドサービスは今や企業活動に不可欠であり、日本のデジタル赤字が10兆円規模に迫る現状を見れば、商品以上にサービスの分析が必要な段階に入っていることが分かります。
彼が生きていた時代は、日本で言えば江戸時代末期から明治時代にかけてです。産業史的に言うと、産業革命があり産業資本主義が勃興する時代です。その頃のヨーロッパの時代風景を彼は見ているはずです。どんな天才と雖も、その時代からの制約や限界を受けます。それが社会科学分野の宿命であり限界なのです。自然科学分野には、なぜ時代の制約を受けないのかと言うと、ネズミはいつまで経ってもネズミですし、太陽も月も何万年も変わりません。自然科学が対象とするものは「ほぼ不変」です。ところが、社会は凄まじい勢いで変化します。社会科学分野で時代を超越した理論など生みだせる訳がないのです。『資本論』も当然例外ではなく、書かれた時代の制約を強く受けることになります。バイブルのように扱ってはいけないということです。
(「日本の古本屋」)
商品分析の長所と限界
マルクスが生きた産業資本主義の頃は、機械で大量生産された商品が市場に出回り始めた時代です。ただ、工場で生産された大量の商品が売りさばかれるためには、それらを消費者のもとに運ぶ業者が必要となります。運送業というのは、モノ作りをしませんのでサービス業です。製造業の発展は必然的にサービス業の発展を促すことになります。
学問というのは、連想ゲームの要素があります。すべて因果関係で成り立っているからです。大量生産が進めば流通・運送業というサービス業が必要になるというのは、そんなに難しい連想ではないと思いますが、マルクスは全く思い浮かばなかったようです。彼は部屋に閉じこもって学問をするタイプですが、頭の中ですべて処理をしようとする方にはこういった落とし穴が結構あるのです。現場に足を運ぶのが重要ということです。
商品が最小単位というのは、別に間違いではないので、マルクスの分析について見てみることにします。その商品ですが、交換価値と使用価値の2つを併せ持っていると言います。この辺りの分析力はさすがだとは思います。使用価値というのは、その人にとっての価値です。交換価値というのは、社会一般で通用する価値のことです。母の形見のメガネの交換価値はゼロですが、その方にとってはお金に換えがたいほどの価値を持っています。逆もあります。例えば、本人にとって使わなくなった商品なので何の価値もないけれど、メルカリに出したら高額で売れてしまったというケースです。
(「資本主義の奴隷」)
サービスが有する「両極的価値」
商品については分かったが、サービスはどうでしょうか。サービスは目に見えません。そのため、サービスの価値は「神出鬼没」です。形に表れた瞬間に交換価値がつくという性質があります。例えば、有名歌手のコンサートを例にとると、ネットでその席を予約でき、そのことを客観的に明らかにする証書がなければ交換価値は発生しません。そして、サービスの価値はあくまでも個別に付くものです。ある人にとって何十万と払っても必要なサービスでも、それを欲しない人にとっては一銭も払いたくないサービスというのがあるからです。商品の場合は、そこまで極端なものはないと思いますが、サービスは「両極性」を有します。
それから資本主義社会が高度に発達すればするほど、サービスによって生み出される価値は大きくなります。というのは、人間の物質的欲望は限界がありますが、精神的欲望は基本的に際限がないからです。食欲において目一杯、腹一杯という言葉はありますが、あの人のコンサートは何回行っても飽きない、あのチームの試合はずっと応援したいということで、欲望が逆に増す働きをするのがサービスです。そんなことから、高度な資本主義社会を正確に分析するためには、どうしてもサービスの分析をする必要があるのです。
商品とサービス、両者は資本主義社会にとって重要な最小単位のものであることは確かですが、性質的にまったく違います。だからこそ、両者について検討を加える必要があるのです。商品だけ分析して、資本主義社会はこうだというのは、間違った結論を生み出す可能性があるということです。『資本論』は商品分析をした後、サービスについて何も触れず、そこから剰余価値、そして搾取論を展開しますが、最初の出足を間違えたため、その後の理論展開では現実社会と乖離した結論を導き出してしまっています。紙数が尽きました。この続きは、次回にしたいと思います。次回の23日(火)は祝日のためお休みさせて下さい。
(「Digima~出島」)
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