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「明治的保守」と「文化的保守」―― 2つの保守が共存 / 明治以降の「保守」は名ばかりの「エセ保守」

女性

「前回、保守の中の「ゆらぎ」について語りたいとおっしゃっていましたが、そもそも「ゆらぎ」というのは何ですか?」

「本来、保守政党は1枚岩でまとまらなければいけないのですが、それがまとまり切れていない状況を「ゆらぎ」と表現したのです」

女性

「なぜ一つにまとまり切れないのですか?」

「一言で言えば、「同床異夢」だからです」

女性

「成る程、保守に対するイメージが、それぞれ違うということですね」

「拠って立つ政治基盤も違います。一番の分かれ目が、明治維新ですね」

女性

「維新肯定派と維新否定派ですか?」

「さしずめそういうことになります。無血革命とか言って、理想的な政権交代であったかのように賛美する意見が多いのですが、政権構想がなかったため限りなく西洋の後追い国家を作ることになります」

女性

「すぐれた西洋文明を積極的に採り入れて近代化を図ろうとする考えだったと習いました」

「部分的な採用であれば良いのですが、日本が長年にわたって構築してきた基本的な統治の仕組み――「シラスーウシハク」を崩し、地方分権を廃し、中央集権制を採用してしまいます」

女性

「天皇については、どういう扱いだったのですか」

「憲法上は「統治権者」ですが、実際には権威だけを利用されたような状況でした」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「リベラルアーツガイド」提供です」

 「明治的保守」と「文化的保守」

現代の「保守」は一枚岩ではありません。言葉として生き残っていても、その拠って立つ基盤は揺らいでいます。現在の日本には、二つの「保守」が共存しています。ひとつは明治以降の国家体制を守る保守、もうひとつはそれ以前の伝統と文化を守る保守です。

明治以降の「体制保守」は、中央集権や官僚制を支える政治構造を「守るべき秩序」と見なし、国家の成長と統治の安定を重視しました。これが今日の政界に続く「明治的保守」の流れです。一方、もう一方の「文化的保守」は、むしろ明治国家そのものを「伝統破壊」と見なし、地域共同体や自然との共生を重んじる価値観を再評価します

つまり、「保守」は「何を守るのか」で分裂しているのです。国家と制度を守るのか、あるいは文化と魂を守るのか。この「ねじれ」を解かない限り、日本の「保守」は永遠に宙吊りのままです。それを曖昧にしたまま、ここまで来てしまいましたが、もうそれが許される状況ではありません。ちょうど昨日、石破首相が「戦後80年所感」を発表しましたが、「明治的保守」の立場からのものです「なぜあの戦争を避けられなかったのか」が問題意識としてあるそうですが、明治維新そのもの、つまり最初の1歩が間違っていたからです。坂道をノンブレーキで転がり始め、それが日清・日露と加速がつき、気が付いた時は猛烈な勢いで暴走しており誰も止めれるような状態ではなかったのです。彼はしきりに帝国憲法や議会のことを問題にしていましたが、暴走の種はそれ以前の明治維新期にバラ撒かれていたのです。


(「note」)

 明治以降の「保守」は名ばかりの「エセ保守」

明治以降の「保守」は、名ばかりの「エセ保守」にすぎません。その特徴は、戦前を明治維新期と昭和期に二分し、前半を「近代化の栄光時代」、後半を「大東亜共栄圏建設の理想期」として美化する点にあります。つまり、侵略と植民地支配を「発展の物語」に書き換えてきたのです。

藩閥政府は西洋列強を模倣し、朝鮮、台湾、中国大陸へと次々に進出しました。戦争は常に国の外で行われ、国内では教育勅語とマスコミ報道が「帝国の使命」という幻想を国民に植え付けました。「大東亜戦争」という呼称自体がその象徴です。命名を主導したのは陸軍であり、海軍は「太平洋戦争」と呼んでいました。1943年に開かれた大東亜会議では、突如として戦争目的が「アジア解放」へとすり替えられ、日本はインドやビルマの独立を支援する“正義の戦争”を戦っていると宣伝されました。これは後付けの大プロパガンダにほかなりません

実は、第一次世界大戦後の世界は平和協調へと向かっていました。1920年には国際連盟が設立され、国際的な集団安全保障の試みが始まる中、日本は真っ向からそれに逆らい、1933年に連盟を脱退してしまいます。そして、当時のファシズム国家のドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶなど、国際社会の「ならず者」として振る舞いました。ABCD包囲網は、こうした日本に対する経済的制裁でしたが、日本は逆上し、アメリカとイギリスに宣戦を布告してしまいます。結果として国土は焦土と化し、敗戦を迎えました。

にもかかわらず、いまだにこの80年を「栄光の時代」と呼び、美化する論者が後を絶ちません。明治から昭和にかけての「近代日本」こそが、日本の美しき伝統を捨て、東洋を裏切り、国を誤らせ、多くの無辜(むこ)の民を鉄砲玉のように使った時代であったことを、私たちはもっと直視すべきです。6,500人の将来ある青年を特攻隊で飛び立たせてしまった政権は、明治維新期に誕生した政権です。真の保守には、明治維新から敗戦までを一つの政権の流れとして捉え、その中で日本は国際信用と国富、さらには国民の多くの命を失ったことの事実を直視することが使命としてあるのです。

(「東京歴史倶楽部(トウレキ)」)

 エセ「保守」が辿った必然的な結末

「革新」が消え、「保守」が残りました。しかし、その「保守」はいま、理念の空洞と歴史の歪曲の中で漂っています。明治的エセ保守が築いた「栄光の物語」から抜け出し、日本的精神の根を取り戻すこと。それこそが、戦後日本に課せられた最大の課題です。

明治的エセ保守が高く評価しているのが、五箇条の御誓文です。これは戊辰戦争の最中に戦いを有利に進めるために出された政治色の強いものです。当時15歳の明治天皇の権威を利用する作戦だったのです。もちろん明治天皇は作成に関わっていません。「上下心を一つに……」とありますが、明治の政権は薩長独裁政権を作り上げ、自分たちだけで固まって中央集権国家を作っていったのです。五箇条の御誓文を発表して1か月後に江戸城の無血開城があります。作戦が上手くいったのです。

政権が幕府から朝廷に移譲されたのですから、新生日本をつくるために諸藩が協力をすれば良いのですが、藩閥の連中は戊辰戦争を継続して、東北の諸藩に向けて兵を進軍させ「残党狩り」を行います。一番のターゲットは会津藩でした。会津白虎隊の悲劇は有名ですが、会津藩は恭順の意志を示していたにも関わらず厳罰主義で挑みます。家臣の多くを処刑とし、藩士たちを青森の斗南(となん)に集団移住させます。

国内でキバを剥いた独裁政権は、その攻撃の矛先を朝鮮半島に向けます。律令の時代は大陸や半島とは程よい関係を保っていたのですが、180度の転換でした。彼らからすれば、何があったのかと思ったことでしょう。対外的膨張主義はその後80年間止むことはなく、先の敗戦まで続くことになります。つまり、ブレーキのない車がこの時に坂道を転がり始めたのです。「明治的エセ保守」の様々な所業を客観的に見る限り、受け継ぐべき価値ある行為は一つもないと思われます。

(「北海道木古内町」)

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