「日本の公立小学校の殆どがコミュニティ・スクールになってしまったことは知っていますよね」
「ええ、この前のブログで話題になったことなので、覚えています」
「文科省の方針で公立学校のコミュニティ・スクール化が進んでいるのですが、私に言わせれば「偽りのコミュニティ・スクール化」だと思っています」
「どこが偽りなのですか?」
「日本のコミュニティ・スクールは、地域の住民を学校の単なるサポーター扱いしています。アイディアを出す主体として考えていません」
「現場の責任者の校長や教員と協議をして様々なことを進めることができると思いますけど……」
「実は公立の現場の校長にそれほど多くの裁量権が与えられている訳ではないのです。教育課程編成権、教員の採用権、教科書選定権、すべてありません。私学の校長には、その「3種の神器」が与えられています。だから限られた裁量権の範囲内で協議できるということです」
「アイディアを出す主体ではないとおっしゃったのは、そういうことですね」
「創造的なアイディアを出しても実現できないということです」
「例えば、どういうことですか?」
「例えば、土曜日に授業とか、地域の講座を入れるというのは無理でしょ。コミュニティと言うからには、地域の住民が主体となってその中身・内容を創っていくことができなければ意味がないと考えるからです」
「ただ、それは現実的には難しいと思います。仮に地域協議会とか学校評議会が教育課程編成権を持ったとしても、オリジナリティ豊かなカリキュラムが出てくるとは思わないからです」
「急には無理です。だけど、日本人というのはアイディアマンが多いので、何年かすると面白い内容のコミュニティ・スクールが登場すると思いますけどね」
「そうでしょうか?」
「他の国に出来て、日本が出来ないというのもおかしいでしょ。コミュニティ・スクールというのは、もともと1930年代にアメリカで生成された言葉です。コミュニティの本場のアメリカの状況をレポートしたいと思います」
「本場の「コミュニティ」を勉強しましょうか。ここからが本論です ↓」
アメリカのコミュニティ・カレッジ
アメリカには、地域の住民が自分たちの考えで設立を認可された公立の2年制のコミュニティ・カレッジが多くあります(認可権は州政府)。全米の大学が約4000校ありますが、そのうちの約3割の1200校くらいがコミュニティ・カレッジです。といっても、多分ピンと来ないと思いますので、カリフォルニア州の例を取り上げてみます。カリフォルニア州自体が日本の面積よりも広く、その人口は2500万人ですが、約100位のコミュニティ・カレッジを有しています。それを日本の山梨県に置き換えてみると、山梨県の人口規模で言うと、3~4校くらいのコミュニティ・カレッジがあっても良いという計算になります。
山梨県の公立大学は、山梨県立大学だけですし、一般の市民は山梨県立大学で受講できません。入試に合格した学生だけの大学になっているのです。日本人は、それを聞いた時に何の問題意識ももたないと思いますが、アメリカ市民がそれを聞くと、地域に対して閉鎖的な大学というイメージを持つと思います。
アメリカのコミュニティ・カレッジは登録制です。数千から数万の学生が登録しますので、州全体で100万人位になります。それをやはり各大学ごとに登録している専任教員、非常勤講師、職員、合わせて1000人位で面倒を見るのです。入試はありません。18歳以上ならば、老若男女を問わず誰でも自由に講義、実習が取れるようになっているのです。地域住民に対する配慮もさることながら、託児所の設置、身体障害者に対する配慮もなされています。
(「エイブルスタディ」)
中には、4年制大学に進むためのワンステップと考える人もいます。そういった要求にも柔軟に対応できるようなシステムも整っています。単位の中で4年制大学に互換性のあるものがありますので、編入を考えている学生はその単位を中心に自身の時間割を組めば良いのです。
コミュニティ・カレッジの中では、成人教育、日本で言うところの生涯教育が行われています。住民は生涯にわたって教育を受ける権利があるので、その権利を具体的に行使する場所がコミュニティ・カレッジという合意が出来上がっているのです。
そして、コミュニティ・カレッジは地域の多くの住民が集う大学というコンセプトのため、キャンパスを広くとってあります。住民はキャンパスの中を自由にジョギングしたり散歩したりして、昼食をとり、図書館で本を読むというようなこともできるのです。お年寄りのための老人健康スポーツや簡単な技能習得の講座もあります。
そして、音楽ホールでは時にはコンサートも開かれます。オペラ、演劇、美術展、もちろん在校生の作品展示もあります。そういった活動すべてが単位の対照となるわけではありませんが、地域の住民の知的欲求に応えるべくコミュニティ・カレッジが地域において存立しているという考えが根底にあるのです。夜間の利用者に対応できるように開校時間も長く、夜の10時位まで門を開いているところが多いとのことです。
(「マナビラボ-NAKAHARA-LAB.net」)
アメリカの大学はコンセプトがしっかりしている
【アメリカの大学】
<4年制大学>
総合大学(ユニバーシティ) | 大学院の過程もある。教育+研究 |
単科大学(カレッジ) | それぞれの専門分野を学ぶ私立大学 |
専門大学 | 芸術、音楽といった特定分野を学ぶ |
<2年制大学>
コミュニティ・カレッジ | 地域に根付いた公立大学。地元住民の生涯教育権に対応して設立。職業訓練や健康教育、芸術・文化活動も行われる。学費が比較的安く入りやすい。 |
ジュニア・カレッジ | 私立の四年制大学進学を目的に設立されたので、一般教養科目中心のカリキュラム |
日本の大学と比較していかがでしょうか?それぞれの大学のコンセプトがしっかりしていると思います。日本の場合は、ユニバーシティらしき大学とカレッジらしき大学が乱立し、受験生は国立か私立、そして偏差値で選ぶという感じになっています。これは、国としての大学政策があるか、ないかの違いがこのような違いとして出てしまっているのです。
教育の大政奉還の時代――中央集権教育体制からの脱却を
文科省に教育行政を任せている間は、日本の教育は良くはならないと思っているのですが、大学進学率が60%にまで行ってしまい、「大学全入時代」と言われ、4割の大学で定員割れを起こしているという有様です。国家が発展していくためには、どうしても「エリート」が必要ですが、その育成を大学が担えなくなっているということを意味しています。
本来は、学術会議が大所高所から日本の教育の在り方について提言をし、政府の中で具体的な方針を示して、法案を国会で通して、それを受けて文科省が教育行政を行うというのがあるべき姿なのです。
ところが、学術会議が共産主義者に乗っ取られてしまって事実上機能していません。考え方が一面的なので創造的な提案ができないのです。政府や国会議員の殆どは教育の現場について分かりませんので、勢いすべて文科省に任せてしまうということでしょう。ただ、文科省の役人も、教育のことを勉強してきた訳ではなく、国家上級試験の総合職試験に受かって、たまたま文科省に配属されたというだけです。特に、日本の教育に関心があったから配属された訳ではないのです。
そのような文科省にすべての教育権限を与えてしまっています。先進国で日本のように、中央集権的な教育体制をとっている国はありません。かろうじて私立学校は「3種の神器」が与えられているので、それを使ってある程度自由さが認められていますが、それでもかなりの制約を受けているのが現状です。教育の分野における大政奉還が必要な時です。
(「はじめての三国志」)
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