「「ラーゲリより愛を込めて」という映画を観てきました。久しぶりに泣いてしまいました」
「二宮和也クン主演の映画でしょ。ロマンス映画ですか? 言っていただければ、お供しましたのに……」
「多分、あなたが予想しているような内容の映画ではないと思います。そもそも、ラーゲリーの意味をご存じですか?」
「いえ、どこかの地名だと思っていましたけど……」
「ラーゲリは強制収容所という意味です。ソビエトに抑留された人たちを題材にしたドラマなんです」
「えっ、そうなんですか!……(絶句)。シベリア抑留ということ自体、私達殆ど知らされていませんし、70年位前の話ですよね。どうして今頃になってそういう映画が作られたのか、少し不思議です」
「実は、日本人にとってシベリア抑留は闇に包まれている部分です。例えば、高校の日本史や世界史の教科書に何も書かれていません。今回の映画の内容に関することが書かれていれば、ロシアに対する認識も違ったのではないかと思います」
「抑留の歴史がどうして記述されなかったのですか?」
「それを説明したものはありませんが、多分、1956年の日ソ共同宣言とそれに伴う北方領土問題が関係していると思っています」
「北方領土が返還されなくなってしまうということですか?」
「憲法9条もありますし、日本としては北方領土の返還はソ連との交渉しかあり得ません。相手方が不愉快に思うような内容のものを映画であっても放映出来ないだろうという判断があったと思います」
「何か、配慮し過ぎだと思いますけどね。結局、良いようにソ連やロシアに操られていた感じがします。映画は何か原作本があるのですか?」
「ノンフィクション作家の辺見じゅん氏が『収容所から来た遺書』を出したのが1989年です。実話がもとになっています。この作品で第11回講談社ノンフィクション作品賞を受賞しています。プロデューサーの平野隆氏が学生時代にその本を読んだそうです」
「ずっと温めていたんですね」
「もう少し早く上映されていれば、辺見氏もこの映画を観ることができただろうなと思いました。10年前に亡くなられています」
「ここから本論です。↓ 表題は 高校生試写会/東宝株式会社提供です」
ソ連軍に拘束された軍人たちは強制労働に従事させられる
映画は、敗戦が決まったものの、まだ多くの日本人が満州にとどまり生活をしていたところにソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して四方から攻め込んで来るところから始まります。主人公の山本幡男氏は妻のもじみさん、そして4人の子供たちと満州に滞在していました。不意を突かれたような突然の攻撃によって、家族は離れ離れとなります。「日本で会おう」という約束をして、もじみは子供たちを連れて日本行きの船で帰ります。
ソ連軍に拘束された山本ら軍人たちは、シベリア鉄道でスベルドロフスクの収容所(ラーゲリ)に連れていかれます。マイナス20度、30度は珍しいことではないという極寒の地での強制労働作業が待っていました。第二次世界大戦中、ドイツ軍の侵攻によってソビエトは2000万人とも3000万人とも言われるほど多くの犠牲者を出しました。労働力不足によってシベリア開発はままならない。それを収容所の軍人たちに担わせようとしたのです。
もちろん、そんなことは国際法的に認められるはずがありません。ただ、ロシア人たちは自分たちの都合ですべてを考える国民性です。1日の食事は、約350グラムの黒パンと薄いお粥(カーシャ)やスープが少量というもの。厳しい環境の中で、約60万人と言われる強制労働従事者のうち、抑留中に約6万人が亡くなったと言われています。死体はシベリアの地に穴を掘って埋められました。
(「島学区まちづくり協議会瓦版:シベリア抑留」)
ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に攻め込んできた
ソ連が満州に攻め込んできたのは、領土狙いです。満州は日本が開拓を進めた地でしたので、その地を奪い取ろうとスターリンが軍隊を動かしたのです。
満州の位置を地図で確認すると分かりますが、北朝鮮とロシアの間に挟まれた地です。かつてロシアは1900年の義和団の乱の時に満州全域を占領したことがあります。その後日露戦争でロシア軍が敗れ、1905年に北満州と南満州に2分されます。その時以来、日本に対しては領土を奪われたということで、恨んでいたのです。
少し話は逸れますが、満州を中国だと思っている人が多いので説明します。現在は、中国に編入されていますが、もともとは満州族が住む「塞外の地」です。地図を開いて、万里の長城の外に満州があることを確認してください。その満州を日本はロシア(ソ連)との防衛線と位置づけながら王道楽土を建設するということで、満州鉄道が敷設され、多くの日本人が満蒙開拓団ということで移住していったのです。その日本人を守るために軍隊が編成され、その中の一人に映画の主人公の山本がいたということです。
文学青年の山本は常に「希望」を説いた
山本は古典文学からロシア文学にまで精通した文学青年でした。ロシア語も堪能でしたので、ソ連側との通訳をかってでることもありました。今の社会であれば、普通に大学の文学部の教授くらいになれたような人物だと思います。
その彼が何の希望もないような収容所生活の中で、いつか必ず帰国できると信じ、仲間たちを励まし続けます。時には、勉強会を主宰したり、通訳者としてソ連に対して要求をしたり、さらには娯楽が必要ということで手作りのボールとバット、グローブで野球大会を開いたりします。
わずかな食料とすし詰めの共同生活。絶望感だけが広がる中で、希望をもつことを教え説く山本。ただ、彼は力強く皆をまとめ上げようとするリーダーではありません。背後から倒れそうになる仲間を何とか支えようとするタイプのリーダーです。そういう彼の姿を見て、最初は反発をしていた人も彼のひたむきな生き方に感化されていきます。
そして、いよいよ帰国の時が来ます。一行を載せたシベリア鉄道はバイカル湖を過ぎます。目的地のウラジオストックまで半分以上を過ぎた所で止まります。予想もしなかったようなことが、ここで起こります。そして、悲劇が起こり、題名の意味がそこで分かります。事実は小説よりも奇なりとは、よく言ったものです。
見終わった瞬間に、創作話のような気持ちを抱かせるような作品でした。こんな残酷な話は本当であって欲しくないという思いが、そういう気持ちにさせたのだと思います。シベリア抑留の犠牲者の遺骨回収すら殆んど進んでいません。史実の検証とともに、犠牲者の遺骨回収を進める必要があると思います。
読んでいただきありがとうございました。
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