「前回のブログで、来年は日本と韓国の国交正常化、60周年の年になるという話でした」
「両国でお祝いムードになると思いますか?」
「若い世代では、もしかしたらそうなるかもしれません」
「部分的な祝賀ということですか? それでは余り意味がないと思います」
「根本的な解決に持っていくには何が必要でしょうか?」
「そもそも、両者の和解は絶対に無理と考えている人たちも一定数いることは確かです」
「そういう意味では、かなり深い溝ができてしまったということですね」
「それにプラスして北朝鮮の問題がそこに絡みます」
「複雑な方程式を解いている時の気分になってきました」
「問題が絡まった場合は、原点に戻るということだと思います」
「原点というのは、60年前ということですか?」
「彼らが問題にしているのは、もっと前のことです。李王朝の時代にまで遡って歴史検証する必要があるのではないかと思っています」
「そういうことを問題提起している方はいるのですか?」
「かつてはいらしたのですが、時間の流れの中に埋もれてしまっています」
「ここからが本論です ↓表紙写真は「日朝文化交流史」提供です」
朝鮮との交流史
朝鮮半島と日本列島は地理的にかなり近い関係にあります。そんなこともあり、古代の人たちは、東北以北よりも半島を日本の一部として認識していたのではないかと思われます。実際に、朝鮮人と我々日本人は同じウラル・アルタイ語系ですし、先祖は共通のモンゴロイトだと言われています。
古代の時代は、朝鮮半島はいくつかの王朝が成立し、互いに勢力争いをしていました――高句麗、新羅、百済など。緊張関係になったこともあったと思います。そういう時に外交関係の一つの突破口として日本(倭)が利用されていました。使節の往来や医学、易学、暦学といった専門家の交流もありました。友好国であった百済から儒教や仏教が伝わったことが分かっています。6世紀の聖徳太子の頃の時代です。
実際に白村江の戦い(663)の時は百済の要請を受けて約2万7千人の水軍を半島に送り込んでいます。当時の日本の人口が500万人程度だと言われていますので、現代の人口に直すと50万人位になります。それだけの兵力を援軍のために派遣するだけの繋がりがあったことが分かります。その後朝鮮は基本的に中国の華夷体制に組み込まれていきますが、人とモノの交流は基本的に対馬を中継点にして行われていたのです。
(「富士ツーリスト」)
明治の新政権になった途端に牙を剥く
江戸時代も朝鮮からは通信使が来日をして交流が保たれていました。ところが、明治の新政権になった途端に牙を剥き、攻撃的になったのです。その原因は、政権奪取の過程にあります。
薩長土肥が中心となり、そこに朝廷方の数人が画策したクーデターによって権力を奪取して明治天皇を担いで「五箇条の御誓文」を出させて格好をつけたのが明治維新です。天皇を担いだのは、他の藩が反抗できないようにするためです。次に版籍奉還(1869)さらには廃藩置県(1871)を行い、藩主は華族として処遇し、藩士を士族として処遇し、禄を与えます。
権力を奪取したものの肝心の政権構想がありません。「五箇条の御誓文」は抽象的過ぎて政策として使えません。困った挙句に思い付いたのが使節団の西欧への派遣だったのでしょう。政府要人を含めて約100人の大集団が1年10か月の旅に出ます。そして西欧の帝国主義の空気を吸い込んで帰ってきたのです。徴兵令が出され、富国強兵の方針が示されます。
(「yayoigaoka-seminer.com」)
王妃暗殺事件まで起きている
江華島事件(1875)が起きます。日本の軍艦が朝鮮の首都に迫り、威嚇砲撃を口実に日朝修好条規(1876)を結び、当初のシナリオ通り朝鮮を開国させます。この条約は、治外法権を認め、関税免除をみとめさせるという内容になっており、朝鮮にとっての不平等条約です。この当時、日本は欧米とは不平等条約改正に向けて動いていた時期でもあるのですが、朝鮮に対しては不平等条約を押し付けます。
朝鮮はその後、日本、清国、ロシアの取り合いとなります。日清戦争、日露戦争というのは、要するに朝鮮をどこが領有するかを巡っての戦いだったのですが、日本人の多くが義戦と考えていたのです。そしてその大義名分が、長年朝鮮をいじめてきた清国をこらしめ、朝鮮の独立を守るというものでした。当時の日本政府は世界に対して「朝鮮の独立と内政改革」であると説明していたのですが、彼らからすれば大きなお世話だし、内政干渉です。
豊島沖海戦を皮切りに、成歓・牙山の戦い、平壌の戦い、黄海海戦、旅順口の戦いと続きますが、すべて戦場は朝鮮半島もしくは遼東半島です。そして、そこに住む民衆は両国の戦闘の第一の被害者だったのです。そして東学党の乱が起きます。決起の理由は「日本は武力で王宮を占拠し、主権を犯し、内政改革を口実に国内秩序を破壊している」というものです。日本では殆ど報じられないこともあって知っている人は少ないのですが、朝鮮の王妃が殺されています。
角田房子氏の『閔妃暗殺』(新潮社、1988)によると「閔妃は日本人によって殺害され、遺体は庭園で焼却された」という点では日韓両国の資料で一致していると言います。先に刃を向けたのは日本ですし、連鎖を断つためにも謝罪すべきは謝罪しないといけないと思います。
(「落札相場アーカイブ」)
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