
「自治体トップの不祥事が目立ちます。最近は、学歴詐称。その前は、パワハラです」

「学歴詐称の市長は、結局、失職しました」

「彼女が議会を解散したため、市議会選挙をやる羽目になり、その費用だけで6,300万かかったそうです」

「市長が失職したので、今度は市長選を、またすることになりますね」

「12月14日に市長選が行われるそうですが、3,700万の予算を計上したそうです」

「合わせて1億円ですか! 何か勿体ない気がします。それに新市長が決まるまで、市政はストップしますよね」

「伊東市は結局、この1年間に2回の市長選と市議選を行うことになります。それだけで2億円かかります」

「その分を市内の子供たちのために何か使うことができたのに……。これは仕方がないことなのでしょうか?」

「日本の地方行政は大統領制を採用しています。私は、地方こそ議院内閣制にすべきだと思っています。そうすれば、時間と労力とカネの無駄がなくなります」

「ここからが本論です ↓表紙写真は「You Tube/日テレNEWS」提供です」
多数決の限界と地方政治の危うさ
「日本は選挙ばかりしている」。これはアメリカのトランプ大統領の言葉です。選挙を重ねれば、民主主義が発展する訳ではありません。組織経営を考えれば分かりますが、どこで、どのレベルで多数決を採るかが重要です。タイミングを一つ間違えれば、組織は却って分裂します。多数決は、白か黒かを決着させるために行う最終手段だからです。中間の意見が時には重要なこともありますが、そういう意見を封じ込め、どちらかに選択を強制することになります。そういう意見が多い場合は、決定した後にも「わだかまり」が残ります。その「わだかまり」が時には不協和音として組織内で増幅することがあるからです。
国論が2つに割れる。これはある意味、仕方がないこともあるでしょう。国レベルの問題なので、テーマがどうしても大きくなるからです。立場や見方によって意見が分かれるのは、ある意味仕方がない事です。しかし、地方レベルで意見が割れることは余り望ましいことではありせん。大統領制を導入して、絶えず知事選挙、市町村選挙をすることは、亀裂を生むきっかけを絶えず与えているようなものです。
地方自治に於ても、国と同じように議院内閣制であれば、地方議会のメンバーの中から首長が選ばれます。日常的に関わりのある人物の中から選ばれるため、人間的に信頼できない人が首長になることはまずありません。地方自治のレベルでは、予算も限られている中で、継続的に議論を重ねなければいけない事案が比較的多くあります。ところが、大統領制を導入しているため、首長に決定権がすべてあることになります。その首長が時には、その地方の事情がまったく分からず、中央からの天下りということもあります。意見の対立がどうしても生じやすい構造の中でパワハラが頻発するということでしょう。大統領制が続いている限り、このような問題は永遠に続きます。

(「教職ブログ」)
伊東市長選に見る「信任」と「不信任」
2人の会話で話題にしていた伊東市の田久保市長ですが、令和元年の市議選で10位の1,368票で初当選し、次の選挙では最下位の727票で最下位当選でした。票をほぼ半減させた事実は、市民の評価が厳しかったことを示しています。通常であれば、市議として地道に実績を積み、市民の信頼を深めた上で首長選に臨むのが筋です。最下位当選は「実力が不足していますよ」という市民からのシグナルだったのです。本来なら自制すべきだったかもしれません。市議としての実績を積む中で、自分の政治スタイルをある程度確立し、住民の信頼を勝ち取る中での立候補が本来の姿でしょう。
彼女は任期途中で市議を辞職し、今年5月の市長選に出馬、当時の小野市長のもとで計画された新図書館の建設の中止など市政改革を訴えて、当選を果たしています。なお、小野市長は伊豆メガソーラーパーク合同会社(以下「事業者」)が本市内で進めていた大規模太陽光発電(メガソーラー)事業に関して、訴訟係争中にもかかわらず、「控訴が棄却された場合には河川占用を許可する」などの内容を記載した「確約書」に署名したことを倫理違反と認定されています。それを受けて、自ら給与の10分の1を3か月減額するなどの処分を提案・実施しています。そういった失点を田久保氏は巧みに突いて、選挙戦を戦ったのだと思われます。
伊東市の市議会は定数20ですが、2023年9月の市議選において、当選した政党・会派構成は次の通りです――自民6、公明3、れいわ1、共産1、維新1、無所属8。現職の小野市長は自公推薦で出馬していますが、自公で過半数を握っていない状況下で打ち出されたのが、総工費42億円、毎年2億円の維持費がかかる新図書館建設という大型事業だったのです。それよりも福祉・子育て・地域医療にお金を回すべきという田久保氏の首長が説得性を持って市民に受け止められたようです。

(伊東市の新図書館のイメージ図/「東京新聞」)
「地方大統領制」という制度的ゆがみ
伊東市の市長選挙は現職と新人の2人の候補者による一騎打ちとなりました。主な争点は新図書館建設でしたが、本来的に選挙の争点にすべきことではありません。図書館を求める声は当然市民の中にあるからです。予算と規模、運営費をどうするかということをじっくり時間をかけて合意を重ねていけば、実現する可能性が高い事業です。だから本来は、議院内閣制の下、市長と議員が協働し、市民の意見を取り入れながら進められる問題でした。
しかし大統領制では、候補者が提示した案に対して市民が「賛成か反対か」を迫られます。中には「小規模で良いので、身近なところに図書館が欲しい」という意見もあったと思いますが、この制度の元では、そのような折衷案は通りにくいのです。
地方自治レベルで大統領制を採用していますが、その根拠は憲法93条の2項です――「地方公共団体の長、その議会の議員……は、…住民が直接これを選挙する」。なぜ、このような規定になったのかと言えば、戦前の首長は中央からの任命でした。戦後となりGHQ占領下で、それを公選制に変えたということです。深い制度設計の議論があったわけではありません。真に地域に根ざした政治を行うためには、地方レベルでは議院内閣制を導入することが必要です。ただ、そのためには憲法を改正する必要があるのです。
参考記事:「伊東市長失職、選挙へ」(『産経』2025.11.1日付)

(「note」)
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