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『戦後史の正体 1945-2012』を読む (その2) ―― 継続する対米従属の本質 / 1951年「安保体制」の本質

  • 2026年4月7日
  • 歴史
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「『戦後史の正体』を読み終わりましたが、結構、衝撃的なことが書かれていました。改めて、日本はアメリカの干渉を強く受ける国になってしまったのだなという感想を持ちました」

女性

「干渉を受けているという実感が湧かないのですが……」

「それは直接統治ではなく、間接統治をされているためです」

女性

「日本の権力機関がコントロールされているということですか?」

「言葉の選び方が難しいのですが、いざという時には出てくるということです。アメリカにとって都合の悪い政権が誕生した場合は、あの手この手で潰しにかかるということです」

女性

「そのことを実証的に書いているのですね」

「そうですね。著者の孫崎氏は「自主」と「対米追随」のせめぎ合いとして戦後史を捉えようとしています」

女性

「「自主」路線を歩もうとすると、潰されるということですね」

「「自主」か「対米追随」と言われれば、「自主」を日本人は支持すると思いますが、そのような考え方で行動したため、急速に支持が減ったこともあります」

女性

「具体的に首相の名前を挙げてもらって良いですか?」

「民主党政権の時の鳩山首相が一番分かり易いと思います。普天間移設の問題も含めて「自主」路線を打ち出します」

女性

「結局、3年くらいで民主党政権は終わってしまいましたものね」

「マスコミは何故か批判的でした。陰にアメリカの力ありということを孫崎氏は指摘します。ここからが本論です ↓」

 大国秩序の中で形成される日本の立ち位置

「世界中の国々の歴史は、大国との関係によって決まる」と、孫崎氏は指摘しています。この視点は極めて重要です。例えば『大国の興亡』(ポール・ケネディ、1988)は、近代以降の世界を大国同士がその覇権をめぐって戦った興亡史という捉え方をしています。そこでは周辺国家は常にどちらに付くのかという選択を迫られることになります

日本にとっての伝統的な大国は何といっても中国です。『日本書紀』(720年)は全30巻という長大な公式歴史書ですが、正式な漢文で書かれています。編纂されたのは、中国に対し国名やその歴史についてアピールする必要性があると判断されたためでした。中国は古くから冊封体制をとっていました。中国が「親分」であり周辺国を「子分」とする朝貢関係に基づき、礼儀として貢物(朝貢)を差し出す代わりに、中国側は国王としての地位を保障し、手厚い貿易利益(冊封)をもたらしました。各国は大国の力の威光を借りて国内統治をすることになります。お互いにメリットがあったのです。

しかし、日本はその中国とは常に一定の距離を保とうとしてきました。聖徳太子の隋の煬帝に対して送った外交文書は、対等性を主張しつつ、独立の意思を表明した文書でした。そういったDNAが時折、日本の歴史の中で頭をもたげます。遣唐使の廃止(894年)や豊臣秀吉の明(みん)に対する遠征計画はその現われだと思われます。

しかし近代に入り、その均衡は大きく崩れます。日清戦争が端緒でした。当時の極東地域は中国を中心にそれなりに安定していたのに、それを壊すことになります。そして結局、最終的にアメリカの軍門に下り、アメリカの「冊封体制」の中に組み込まれてしまったのです。大局観のない戦争を仕掛けるから、こうなってしまったのです。

(「日本まほろば社会科研究室」)

 「戦後」という構造――継続する対米従属の本質

孫崎氏は「日本の戦後史は、『米国からの圧力』を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません」と述べています。この指摘は、戦後日本の社会構造を捉える上で核心を突いています敗戦後、GHQといっても事実上、アメリカによる日本占領が始まり、外見的にはそれが現在も継続しています。戦後○○年という言い方をします。いつまで戦後という言葉を使うのかと言われることがありますが、アメリカの占領が事実上終了した時だと思います。それが終わった時に、敗戦の区切りが付くことになります。

明治時代に成立した政権が敗戦をはさんで現在も続いています。そんなこともあり、「戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」(孫崎享)。そして、戦後の日本は、常にアメリカの占領政策の影響を受け続けてきたのです。にも関わらず、日本では1980年代頃から「日米同盟」という言葉が頻繁に用いられるようになりました。まるで対等な関係であるかのように使われていますが、あくまでもアメリカが主で日本が従です。日本はアメリカに求めて変化して対応すべき存在と扱われてきたのです。将棋で言えば、飛車であったり、香車であったり、というようにアメリカの戦略目的に応じて変化する駒の役割が期待されているのです。

アメリカの占領政策は過去2回大きく変わりました。戦後まもなくすると米ソ冷戦が始まります。それに伴って変更され、さらに1985年のプラザ合意の頃を境に変更されています。対等な関係だと思い込んでいると、政治的な判断を誤まることになります。

(「表現者クライテリオン」)

 安保体制の原型――1951年体制の本質

戦争が終わった後、当事者間で講和条約が結ばれて戦争終結が国際法的に確定します。そのためその間の占領は、国際法上許されることになります。占領当初の目的は、2度とアメリカに歯向かわないような弱小国にするといったものでした。しかし、ソ連との対立、つまり冷戦が本格化するにつれて、アメリカ内部で日本との講和・独立を求める声が高まり、日本をソ連の防波堤として利用するという意見が強くなっていきます。

その転換点が1951年でした。日本とアメリカを含む48カ国の代表との間で講和条約(平和条約)が締結されました。そして同日、米軍基地内で安保条約が結ばれます。安保条約というのは、軍事同盟のことです。本来は日本とアメリカの両軍が存在して、対等なかたちで結ばれるべきものでしょうが、日本軍はすべて解体され何もないという状態での前代未聞の締結になりました。ただ、この瞬間から、占領軍から駐留軍になったことは確かです。

その時の安保条約の性格を理解するためには、日米行政協定の内容を見る必要がありますその内容は、簡単に言えば、アメリカが望む規模の軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留できるというものです。そして日本は米軍が必要とする場所を「提供しなければならない」という従属的な色彩が強いものでした。そして、最大の問題点は行政協定としたことです。国会の承認を必要としない「行政間の取り決め」で基地の提供のやり取りができるとしたのです。主権が制限されてしまっています。このように日米行政協定は占領軍意識が強い性格のものでした。それを改善するために1960年の安保改定があったのです。

1960年の安保改定は、そのような従属的な立場を改善する点にありました。そういう意味では「改正」だったのですが、大規模な反対運動が発生します。なぜなのか。紙数が尽きました。次回はそのあたりについて書きたいと思います。

(「山本太郎」)

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