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『戦後史の正体 1945-2012』を読む(その3) ―― 日米安保体制と日本政治の系譜 / 岸信介から安倍政権へ、主権はいかに限定され、いかに拡張されたか

  • 2026年4月9日
  • 2026年4月9日
  • 歴史
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「『戦後史の正体』の3回目となります。今日で一つの区切りを付けたいと思っています。」

女性

「前回予告しましたが、安保問題から入っていきたいと思います。私は生まれていないので知らないのですが、記憶にありますか?」

「私が幼稚園の頃ですが、縄跳びを輪のようにつないで、みんなでその中に入って「アンポ反対、アンポ反対」と言いながら遊んだ覚えがあります」

女性

「意味が分かっていたのですか?」

「名古屋では「アンボンタン」という言葉があって、アホという意味です。アホになったらいけないよ、という意味なのかなと思って遊んでいました」

女性

「全然、分かっていなかったのですね(笑)」

「子どもたちが遊びに取り入れる位に、安保闘争は全国的に広がっていたということです。100万人を超える国民がデモに参加し、岸内閣は倒れます。ただ、彼は自主路線を追求した総理大臣でした」

女性

「にも関わらず、なぜ国民は反対だったのですか?」

「理屈は、アメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまうというものです」

女性

「結局、最後は採択されてしまうのですよね」

「衆議院で強行採決した後、参議院に回され、30日の期限内に審議が終わらずに自然成立します。そして、その時に結ばれた新安保条約が、その後の日米関係の基礎になります。ただ、その中身も含めて、その意義について余りよく理解されていないのではないかと思っています」

女性

「旧安保、新安保、そして安保法制までの流れについて見ていきたいと思います。ここからが本論です ↓」

 岸信介の対米外交と「人間関係」のリアリズム

岸信介は、戦前の東條英機内閣で商工大臣や軍需次官を歴任し、大東亜共栄圏の自給自足体制確立など戦時経済を主導した人物です。そのため敗戦後、GHQによってA級戦犯容疑者として逮捕・収監されましたが、1948年にソ連との冷戦が起こるタイミングで不起訴・釈放されます。すると、すぐにアメリカ側から接触があったそうです。当時のアメリカの対日政策は、日本を「共産主義の防波堤」とする方向へ転換しており、その役割を担える政治家として岸に白羽の矢が立ったのです。

首相となった岸は1957年6月に訪米してアイゼンハワー大統領との会談に臨んでいます。すぐにゴルフに誘われ、女人禁制のゴルフ場に行ったそうです(下の写真)。シャワー室で裸どうし向かい合って話をしたそうです。孫崎氏は「現実の外交では、こういう人間臭いファクターが、交渉の行方を大きく左右することがある」と言います。

この構図は、安倍晋三首相とトランプ大統領の関係にも通じるものがあります。安倍は岸の孫であり、生前「祖父の政治的DNAを受け継いでいる」と明言していました。人間関係を基盤にしながらも、自主性を確保するという外交姿勢は、世代を超えて継承されたと見ることができます。

当時はCIAの長官のジョン・フォスター・ダレスが日米交渉の主導権を握っていました。彼はゴルフをしないということで、2人きりの時間を過ごすことが出来たそうです。アイゼンハワーと人間関係を築きつつ、かと言ってアメリカ側が望んだような安保改定をしようとはしませんでした。アメリカの力を利用しつつも、要求を全面的には受け入れない。自分の意見を出すところは出す。このバランス感覚こそが岸外交の本質であり、それが安倍首相に受け継がれていったのだと思っています。

(「毎日新聞」)

 サンフランシスコ体制の本質と行政協定の問題

1951年に講和条約と安保条約を結びますが、そのことについて寺崎元外務次官が重要な指摘をしています。「サンフランシスコ体制は、時間的には平和条約(講和条約)―安保条約―行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかった」と述べています。米側の本音は行政協定の内容を知ることによって理解できると言うのです。

行政協定というのは細則、つまりアメリカが在日米軍基地を使うための取り決めです。その行政協定には「日本国は合衆国に対し、安全保障条約第一条にかかげる目的の遂行に必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」とありました。米側が望む基地を日本国内に好きなだけ設置できると書かれてあります。主権の侵害とも解釈できます。これを岸首相は問題視し、改定しようと考えたのですが、それに対してアメリカのマッカーサー大使は激しく反対しました。

要するに、岸首相は駐留米軍の最大限の撤退を求めたのです。それに対してCIAが動きます。CIAは自民党に対する財政的影響力を行使して、岸ではなく、穏健な保守の政治家に代えようと画策をし始めたのです。孫崎氏は「岸を外し、首相を池田に代える。これは米国の意向を踏まえて行われたことだったのです」と指摘しています。

(「ヒロシマ平和メディアセンター」)

 新安保から安保法制へ―「制約下の自主性」の系譜

旧安保条約(1951年)と新安保条約(1960年)の最大の違いは、アメリカの日本防衛義務の明確化と、日米関係の双務性の確立にあります。旧安保では、米軍の日本駐留権を認めていましたが、日本を防衛するアメリカの義務は明記されていませんでした。新安保では、その点が明確にされたのです。

さらに「事前協議制度」の導入により、在日米軍の配置や装備の重要な変更(核兵器の持ち込みなど)などについても「事前協議」の対象となりました。加えて、条約の期限についても改善が見られます。旧安保では規定がなかったのに対して、新安保では、1年前にどちらかの国から通告すれば、条約は終了できることになったのです。これらは、日米関係における日本の裁量を一定程度拡大するものであり、重光外相、岸首相といった政治家の努力の成果と言ってよいと思います。もっとも、その裁量はあくまで日米同盟という枠内におけるものであり、日本が完全な自主性を回復したわけではありません。この「制約の中でいかに主体性を確保するか」という課題こそが、戦後日本の安全保障における一貫したテーマであったと言えるでしょう。

その延長線上に位置付けられるのが、安倍晋三政権下で整備された安保法制です。この法制の核心は、集団的自衛権の限定的な行使を認めた点にあります。従来、日本は個別的自衛権に厳しく限定され、「自国が攻撃されない限り動けない」という受動的な体制にありましたが、「存立危機事態」という概念の導入により、日本の存立に重大な影響を及ぼす場合には、同盟国防衛のための行動が可能となりました。

これにより、日本は同盟の中で一定の主体的判断を行い得る立場へと踏み出しました。しかし同時に、「必要最小限度」や「他に適当な手段がない」といった厳格な要件が課されており、その行使は強く制約されています。したがって、ここでも見られるのは、全面的な自主性ではなく、「制約下で行使される限定的な主体性」にほかなりません。

このように見ていくと、安保法制は突発的な政策転換ではなく、岸以来続いてきた戦後日本の基本戦略――すなわち「同盟の枠内で自主性をいかに拡張するか」という試み――の現代的な展開であったと理解することができます。そして、孫崎享氏が指摘するように、「米国からの圧力」と「国内政治の変動」という構図もまた、この時期に形成された基本パターンの延長線上にあると言えるでしょう。

結局のところ、日本の安全保障は一貫して、「完全な独立」と「全面的な従属」という二項対立の間で揺れ動くのではなく、その中間において現実的な均衡点を探り続けてきました。安保法制とは、その長い試行錯誤の中で到達した一つの段階であり、「制約下の自主性追求」という日本的課題の現在形であると評価することができるのではないでしょうか。

(「東京新聞」)

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