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「失われた30年」(その1) ―― バブル崩壊の真因 / “内閣以上”の大蔵省がもたらした金融危機

  • 2025年7月1日
  • 歴史
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女性

「『失われた30年』という言葉をたまに聞きますが、あれはどういう意味ですか?」

「1990年代初頭のバブル崩壊後、日本経済が長期にわたって低迷した状態を言います」

女性

「私が生まれた頃ですね。ちょうどその頃に父が今の家を東京近郊で買ったのですが、高かったと言っていました」

「正確に言うと、資産バブルです。株や土地、マンションが高騰しました」

女性

「ただ、資産が増えることになるので、それは良いことのように思えますけど……」

「増えた資産までは良かったのです。それを前提にした貸付をして、借りた側もそれで新たに土地を購入したり、株を大量に購入したりということがありました」

女性

「そして、バブル崩壊となったのですね。バブル(泡)だから、はじけるのは当たり前だと思わなかったのでしょうか?」

「結果を知っているから、そういうことが言えるのですが、当時はバブルを実態と見誤ったのです」

女性

「ある意味、仕方がないということですね」

「過ちは人間なのである意味仕方がありません。問題なのは、その事態をどう見て、その事後処理をどうするかです。そこで過ちを犯します」

女性

「そこを深堀したいということですね。ここからが本論です ↓ 表紙は「K2 CollegeーK2 Assurance-」提供です」

 幻想の担保と不動産投機の罠

バブル期の日本では、資産価格の上昇が続き、企業はそれを担保として多額の融資を受けました。しかし、それらの担保価値は、実体経済の裏付けを欠いた「幻想的な価格」にすぎませんでした。価格は上がっていても、それを支えるだけの生産設備や、消費市場は整っていなかったのです。その結果、本業とは無関係な分野への進出が相次ぎました。たとえば、ゴルフ場やリゾート開発、不動産投機など、収益性や将来性の見通しが不透明な事業に手を出す企業が増えていきました。

そして1990年代にバブルが崩壊すると、地価や株価が暴落し、それまでの担保価値は一気に失われました。たとえば、10億円の土地を担保に8億円を借りていた企業が、その土地の価値が3億円に下落すれば、5億円の担保不足が生じます。追加担保や融資の返済ができなければ、それらの貸出金は不良債権と見なされます。

不良債権の増大により、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、北海道拓殖銀行といった金融機関が1997〜1998年にかけて次々と破綻しました。また、証券会社の山一證券や三洋証券も同時期に経営破綻や自主廃業に追い込まれました。

(「ハフポスト」)

 見えざる引き金──大蔵省による総量規制

アメリカの世界恐慌(1929年)やリーマン・ショック(2008年)のように、海外のバブル崩壊は明確な「爆発点」をもっています。しかし、日本のバブル崩壊には、一般に知られるような象徴的事件は存在しません。実は、その引き金を引いたのは大蔵省でした。

1990年3月、大蔵省は「総量規制」と呼ばれる行政指導を発動し、銀行に対して「不動産業向け融資の伸びを抑えるように」との通達を出しました「総量」とは、金融機関が不動産業に貸し出す融資の総枠を意味し、それ以上の貸出増加を禁止するというものです。たとえば、1,000億円が総枠であれば、その額が上限となり、毎月の返済額しか新たに貸せなくなるという仕組みです。

つまり、「銀行が土地購入希望者や不動産会社に貸す資金の合計を増やすな」という厳しい命令でした。これにより、市場の資金供給が一気に絞られ、バブル経済は急ブレーキをかけられました。資金循環が経済活動を支える中で、資金の流れを断ち切る政策は、経済全体を冷え込ませる危険があります。当初は、段階的に融資審査を厳格化する形にすべきでしたが、大蔵省は一気に“雷を落とす”ような形で規制をかけてしまったのです。

(「MRI ECONOMIC REVIEW」)

 官僚主導の金融政策と世論の反応

総量規制は、法律や閣議決定によるものではなく、大蔵省銀行局が行った行政指導にすぎませんでした。具体的には、銀行局金融検査部と事務次官の協議によって決定され、大蔵大臣は追認する形で承認したと見られています。当時の日本では、法律の裏付けがなくても省庁の一声で金融市場が動く時代でした。金融行政は「大蔵省内閣」とも揶揄されるほど官僚主導であり、事務次官や銀行局長が事実上、国家の経済政策を担っていました。

総量規制について、当時の新聞各社は基本的に肯定的に報じました。「朝日新聞」はこれを「当然の政策」と評価し、「読売新聞」も「これ以上のバブルは国民生活を破壊する」として、土地価格抑制の姿勢を支持しました。

たしかに当時のデータをみると、1985年から1989年にかけて株価は2倍以上に上昇し、日経平均は38,915円の最高値を記録しました。東京の地価は1990年までに3倍以上になっていました。当局者が危機感を抱いたのは理解できますが、経済の急所を握る政策を一部の官僚だけで決定し、国会での議論もないまま実行するやり方には問題がありました。少なくとも閣議や国会の場で公開議論を行い、広く合意を形成すべきだったのではないでしょうか。

(「日本経済新聞」)

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