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歴史認識という「色眼鏡」(2) ―— 中国、朝鮮に融和的に対応してきた日本 /「弱者」になる前に和解する必要あり

  • 2024年10月15日
  • 歴史
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女性

「前回は江華島事件(1875年)のところで終わりました。素朴な疑問ですが、征韓論者の西郷、板垣は敗れて下野した(1873年)のに、結局最終的に政府は朝鮮に高圧的に開国を迫ります。どうしてですか?」

「良い質問ですね。欧米使節団の連中と西郷たちが論争になります。結局、国内統治優先という方針が確認されるのですが、不平武士の問題をどうするかということがその後で出てきます」

女性

「武士は士族として扱い、禄(給料)を供与するようにしたのでしょ」

「秩禄処分と言って、禄の支給を停止して、代わりに金禄公債証書を発行しました。言ってみれば、退職金を国債のような債券で払ったということです」

女性

「それは、いつ頃のことですか?」

「1876(明治9)年です。その年は、廃刀令が出され、秩禄処分が行われます」

女性

「当然、元武士の方たちは怒るでしょうね」

「そうですね、武士として生きる道が絶たれた訳ですからね。絶望的な気持ちになった人も多かったと思います」

女性

「そういった不満があったために、不平士族の乱が各地で起きるのですね」

「そうです。西南の役が一番有名ですが、熊本神風連の乱、秋月の乱などが起きます」

女性

「件数としては、どのくらい起きたのですか?」

「数としては20件くらいだと思います。政府は厳罰主義で臨み、武力で抑え込んでいきます」

女性

「そういった動きと朝鮮半島への動きは関係があるのですか?」

「内部の不満を外に向かわせようという考えが出てきます。徴兵令で元士族たちを兵隊として徴収し、その上で富国強兵の国を作ることを考えるようになります」

女性

「征韓論を唱えた人たちは敗れて下野しますが、残った人たちも結局、征韓論に走るのですね」

「士族の反乱だけではなく、農民一揆も増えます。国内の騒擾(そうじょう)を外に向けさせようと考え、結局、征韓論に行きついたのです」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「Getty Images」提供です」

 中国、朝鮮に融和的に対応してきた日本

日本が地政学的な意味を考えず、砲艦外交によって朝鮮を開国させたことが大きな波紋を投げかけることになります一番驚いたのは李氏朝鮮だと思います。古代の外交史を調べれば分かりますが、日本は中国や朝鮮に対して、紳士的・融和的に対応してきたからです。

例えば、白村江の戦い(663)は唐・新羅連合軍と百済救済の使命を帯びた日本軍(当時は倭)の戦いでした。戦いは日本側の惨敗に終わりますが、その後日本は百済からの亡命貴族の一団をはじめとして、朝鮮からの移民を受け入れつつ、唐と新羅との間で外交関係の修復に入っています。

百済の亡命貴族60余名に日本の位階を授けたという史料が遺っています。そのために19階あった階位を664年に26階にしています。日本の制度を変えて彼らを厚遇したことが分かります。朝鮮と日本は同じウラル・アルタイ語族といった仲間意識が強かったと思います(下図参照)。ウラル・アルタイ語族というのは、動詞を一番最後に使う語族です。モンゴル語、朝鮮語、日本語がそうですが、モンゴル、朝鮮、日本という南北の流れに沿ってそれぞれの土地に定住していったのだと思われます。

(「ライブドアニュース-livedoor」)

 「弱者」になる前に和解する必要あり

朝鮮とは江戸時代の鎖国中も対馬の宗氏を介して貿易を継続していましたし、その取扱い量も長崎貿易よりも多かった時代が数年続いています(下図参照)。朝鮮通信使を通しての交流もありました。その日本が、明治時代になって突然豹変したのです。その衝撃は彼らにとって大きなものだったに違いありません。

なぜ豹変したのか。政権の連続性が途切れてしまったからです。一種のクーデター(政変)だったのです。クーデターの主体は藩閥政府ですが、彼らが今までの政権から何も学ぼうとせず、西欧諸国を規範とした国づくりを始めます。西欧諸国は植民地競争の真っ最中でした。それに乗り遅れてはいけないと強く思った様です。その延長線上に征韓論があったのです。何の指針も持たずに政権を執った場合の恐さが出てしまいました。特に、外交関係に出てしまったのです。

近隣諸国との関係は特に、慎重にコトを運ぶ必要があります。日本には「近所は遠く付き合え」という格言があります。付かず離れず、程よい距離を取ることがお互いにとって望ましいということです。場合によっては、助けを借りなければいけないことがあるからです。その時は「強者」かもしれませんが、いつ「弱者」になるか分からないからです。お互いどうなるか分からないので、どう転んでも対応できるようにというのが、先人の言葉の意味だと思います。

完全にそれを無視した行動をとります。今の状況は「強者」であれば「弱者」の隣国を攻めても構わないということになっています。ということは、将来日本が「弱者」になった場合は、隣国から攻められても何も言えないことになります。和解を今のうちに行う必要があるのです。

(「ktymtskz.my.coocan.jp」)

 朝鮮半島をはさんで清と日本が対立

朝鮮開国によって清との関係が途切れたため、不愉快なのは清です。彼らからすれば、中国と朝鮮との古代からの冊封体制が否定されたことになるからです。お互い王朝の交代がありつつも、冊封体制は基本的に維持されてきました。従来通りの影響力を保持したいという中国の力学が朝鮮半島に加わることになります

開国そして近代化を迫る日本の動きに対して、朝鮮国内でそれに呼応する動きもありました。李氏王朝自体が親清派と親日派に分かれて対立しましたし、親日改革派(独立党)は日本の援助を受けてクーデターを敢行しています。それは清の軍事援助を受けて失敗しますが、朝鮮を間にして清と日本が対立をし、それが沸点に達したために戦火を交えることになります。

1894年日本が清に宣戦を布告して日清戦争が始まります。朝鮮の取り合いのような戦争であったため、戦火の舞台は主に朝鮮半島でした。軍備に勝る日本が終始戦いを有利に進め、清の勢力を半島から放逐します。戦いの舞台が、遼東(りょうとう)半島、山東半島というように清側に移ったのを見て、世界の列強が講和に動くことになります。

続きは、次回(10/17)にしたいと思います。このブログは週3回(火、木、土)配信しています。

(「NHK」)

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