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朝のゴミ拾い日記  (その3)

  • 2020年1月1日
  • 2020年1月1日
  • 日記
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「まだ続きがあったの?」 ゴミんね。また、お付き合い下さい。

何年か前、かつて新聞にブラジルから日本へ研修旅行に来た日系青年の投書が載っていた。

その内容は、日本にはごみ箱がないのに、ごみが全然落ちていない。

無題

最初は不思議に思っていたが、要するに日本人はごみを捨てない人たちだということが分かり、私の身体の中にもそんな日本人の血が流れていることを誇りに思うというものであった。

何か気恥ずかしい思いがしたので覚えていたのだが、日本人でもゴミを捨てる人はいるが、それをカバーして掃除をしている人がいるというだけの話である

ウォーキングに出かける時に、週に1回は可燃ごみ用の小袋(10L)1枚とレジ袋の2枚を持って出る。3・40分位歩くと両方とも一杯になる。

1時間のウォーキングで3・4袋になる位ゴミがある。

ただ、そんなに持って歩くと、自分の所のゴミを他人のゴミ箱に捨てようとしている悪い奴に見られそうなので、1枚ずつにしているだけである。

普通の住宅街を歩いてこれだけの量。近年その量が増えている気がする。

私のご近所にも私と同じようにゴミ袋を手にしてウォーキングをしている人もいるし、通学路に立って目立ったゴミを拾っている人もいる。

また、駅周辺を休みの日に時々ゴミ拾いをしている学生らしき人の姿を見かけることもある。

無題

多分、その数が他国よりも相対的に多いのだろう。ロシア・ワールドカップでその戦いぶりもさることながら、日本人サポーターが試合の後、スタンドのゴミ拾いをしている姿が評判を呼んでいた。

さらに、日本人選手の試合後のロッカールームが余りにも綺麗で思わずそれをSNSで発信をしてしまったスタッフが、懲戒されたという話も伝わってきた。

こういったことがニュースになること自体、不思議な気がするが、根底には「公」に対する感覚の違いから来ているのであろう。

日本人は伝統的に「公」を「私」の延長として捉えようとするが、西欧では「公」を「私」の対立したものとみなす傾向が強い。

自分の家の敷地を掃除するのは、当たり前。その感覚をどこまで延長するのか、といった問題でもある。

日本には「向こう3軒両隣」という言葉があるので、隣と向かいの軒先を掃除するのは当然という感覚がある。

それをそのまま、サッカー競技場にまで延長するという発想である。

ただ、西欧では、自分の家の敷地から外れた瞬間、良いこと、悪いこと関係なく、そこは「公」が管理する世界であり、手を出してはいけない世界という解釈であろう。

だから、ワールドカップでのゴミ拾いに対する反応は、人間として素晴らしい行いをしているという反応ではなく、「公」の場所のゴミを拾うという新しい発想を我々に教えてくれた、という類いの反応であったのだろう。

過去のゴミ拾い日記はこちらもどうぞ!
朝のゴミ拾い日記  (その2)
朝のゴミ拾い日記  (その1)

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