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「和」の国を説いた聖徳太子 ―— 「和」の国のかたちを追究したのが、天智天皇と天武天皇 / 何がどのように受け継がれたのか

  • 2024年10月22日
  • 歴史
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「産経新聞社から聖徳太子―和のこころの真実―という本が出たので買って読んでみました」

女性

「その本は確か2年前に出版された時に話題になったと思います」

「日本人は聖徳太子が好きですからね」

女性

「何と言っても、1万円札、五千円札、千円札に肖像画が載った方ですからね」

「3階級制覇だったのですね」

女性

「和という言葉も、好きですよね。それはそうと、内容的にどうでしたか?」

「その人物が偉大で業績を評価したいと思うならば、その後をきちんと調べるべきだと思いました。それが率直な感想です」

女性

「歴史は日記のように書くのではなく、作文のように書き記す必要があると常日頃からおっしゃっていますよね」

「その日に考えたこと、実行しようと思ったことを書き込んだとします。その決意がその後、どのように展開したのかが問題です」

女性

「それが書かれていないのですね」

「というか、そういう問題意識自体がないと思いました。彼の「日出ずる国」の精神は、天智天皇、天武天皇に受け継がれています。特に天武はその理念を『古事記』の中に書き込み、律令制度として取り込んだ形跡があります」

女性

「初めて聞く話です」

「歴史は因果関係で成り立っています。太子関連の個々の史料を発掘して詳細に調べることも大事ですが、その後の流れを辿ることも大事です。何事もミクロとマクロの視点が必要です」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「斑鳩町観光協会」提供です」

 「わ」が「倭」となり、「和」になった

日本は大地が肥沃ですし、海の幸、川の幸、山の幸という言葉があるように、どこにいても食料にそれ程困らなかったと思われます。そんなことから、かなり早くから定住生活が行われていたと思われます。現在の定説は縄文後期ですが、近年の研究者の中には、旧石器時代からすでに定住生活をしていたと主張する人も出ています。

定住を始めた頃は、全体が丸く輪のような形の敷地に、寄り添うように集落が建てられたと思われます。時には他の部族が食料を強奪に来るということもあったでしょう。警察もない時代ですから、防備のため集落の周りに堀と塀をめぐらしたことでしょう。それを「わ」と呼んでいたようです。だからもともと「わ」の意味は「環」や「輪」の意味しかなかったそうです。

やがて中国と交易をするようになり、彼らが「倭」の漢字を当てはめるようになります。腰が曲がった人という意味で差別的意識があったのではないかという人がいますが、多分おじぎをよくする、礼儀正しい人達という意味を込めたのだと思っています。その「倭」を聖徳太子の時代に「和」に代えてもらったのだろうと主張するのが、歴史家の井沢元彦氏です

(「Japaaan」)

 十七条憲法の「和」に太子の願いが凝縮されている

「和」は国名であると同時に国のアイデンティティであることを示すために十七条憲法が制定されます。第一条は「和をもって貴し」で始まる有名な文章ですが、太子の願いがここに凝縮されています。太子の生きた時代というのは、国内外において不安定要因が多い時代だったのです。

大陸に隋という統一王朝が成立し、朝鮮半島では日本の友好国の百済が新羅や高句麗と対立するという状況でした。国内に目を転ずれば、物部氏が蘇我氏に滅ぼされ、その蘇我氏が皇室を脅かすほどの勢いを持つようになり、その延長線上で崇峻天皇暗殺事件(592年)が起きます。しかし、単純に蘇我氏討伐という訳にはいかなかったのです。皇室と蘇我氏は姻戚関係にあり、聖徳太子も蘇我馬子の娘と婚姻関係にあったからです。太子の強い思いが「和」の漢字に集約されているのです。

その「和」を具体的に実現する手立てが第一条の後段に示されています――「上和(かみやわら)ぎ下睦(むつ)びて事を論(あげつらう)に諧(かな)う時は、則ち事理自ずから通ず」。意味としては、上の者が胸襟を開いて下の者と親愛の気持ちで様々なことを話し合うことができれば、どんなに困難な問題でも解決することができるだろう、というような意味です。要するに、和の国にするためには、上の方がまず心を開いて民と接することが重要だと言っているのです。天皇の行幸・巡幸はそんな考えから出てきたのではないかと思っています。

(「ぴくとりーべ」)

 和の国のかたちを追究したのが、天智天皇と天武天皇

和の国のかたちを追究したのが、天智天皇と天武天皇です。天智天皇は唐に倣って、天皇中心の中央集権国家を追究しました。天皇を皇帝に見立て、公地公民を合言葉に公地公民の掛け声とともに豪族の領地を取り上げ、中央から国司を送り込んだのです。当然のように反発が生まれ、いくつかの反乱計画が出ます。一番大きな反乱計画は649年の右大臣、蘇我石川麻呂の計画です。この時には関係者23人が殺され、15人が島流しになっています。中大兄の改革が政権の中枢部において反発を招いたのです。

そんな状況を中大兄の近くから見ていたのが弟の大海人皇子、後の天武天皇です。彼は兄の失敗を受けて、地方分権統治によって日本を和の国としてまとめることを考えます。中心に天皇を置くことについては、3人は共通しています。太子と天智は権力者としての天皇を考えていたのですが、天武はシラス者としての天皇を考えます。権力はお付きの者に与えた上で、その者と「二人三脚」によって日本を統治するシステムを考え出します。それが律令制度です。太政官と神祇官の「二官八省」体制はそこから約千百年の歴史を刻むことになります。有力な権力者を太政大臣として任命し、天皇は神祇官で皇祖神に祈りを捧げます。

その律令制の千百年の時代に日本的な文化の多くが産み出されます。ヨーロッバの中世は暗黒の時代でしたが、ここ日本では多くの文化が華開いた希望の時代だったのです。文化が生まれるためには、生活の安定、精神の安定、共同体の成立といった3条件がなければなりません。それらが揃い、日本的な文化がその時代に地方を発信源にして多く産み出されています。和歌、俳句、川柳、日本庭園、能、狂言、祭り、日本食、城郭、襖、扇子、着物、茶道、華道、柔道、剣道、弓道と上げたらキリがない程の文化が律令の時代に産み出されています。特に江戸時代の260年間は大きな戦乱もなく、人口が3倍になった時代です。庶民は寺子屋で教育を受け、歌舞伎や大相撲は庶民の木戸銭に支えられ、やがて今のかたちになっていくのです。

(「ドラマにほへと」)

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