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「偏差値エリート」が壊した国・日本  ── 模範解答では国を導けない時代に / 「偏差値エリート」をエリートと錯覚

「変化の激しい時代です」

女性

「参議院議員選挙が終わりましたが、自民党は惨敗でしたね」

「自民党が主導する官僚政治の終焉に繋がれば良いと思っています」

女性

「参政党と国民民主の飛躍が目立ちますが、票を入れた方は党首の顔を見て入れたような気がします」

「そういう見方があるのですね。申し訳ないけど、石破さんは選挙の顔ではないですからね」

女性

「私から言わせれば、自民党は逆風が吹いた中でも、大健闘したと思います」

「少数与党として、他党の意見を聞いて法案を取りまとめると言っていますので、力量が試されるのはこれからでしょう」

女性

「あれだけ多くの政党があって、まとまるものなんですか?」

「どこに顔を向けるかでしょうね。国民に顔を向けるつもりなら少数与党でも平気です。ただ、省庁の官僚の言いなりで乗り切ろうとすると、上手くいかないと思います」

女性

「優秀な官僚の言うことを聞いていれば間違いないという感覚があるのでしょうね」

「その優秀をどう考えて、どう捉えるのかが問題です」

女性

「話が哲学的になりましたね」

「哲学的かつ政治的な問題だと思います。ここからが本論です ↓ 表紙は「パブリネット」提供です」

 「偏差値エリート」をエリートと錯覚

日本では昔から、難関の試験に合格した人は「頭がいい」「有能だ」と見なされがちです。特に、国家公務員総合職試験に合格して中央官庁に入る人たちは、いわば「国を動かす頭脳」として期待されてきました。戦前の高等文官試験も同じように、優秀な人材を集める手段として重視されました。しかし本当にそれでよかったのでしょうか。

本来、国を導く立場にある人は、社会の動きや人々の暮らしを見て、そこから課題を見出し、未来の方向性を示す力を持っていなければなりません。ところが、試験というのは「正解がある問題」に答える力を測るものです。つまり、どれだけ「模範解答」に近づけるかを競っているのです。

そうやって選ばれた人たちが、果たして答えのない社会課題に向き合う力を持っているのか。疑問を感じざるを得ません。むしろ、「制度を疑わないこと」「前例をなぞること」が評価される文化が根付いてしまい、柔軟な発想や現場の声は置き去りにされてきました。日本社会が閉塞感を深めるなかで、私たちはそろそろ「優秀とは何か」「国を導くとはどういうことか」という問いそのものを見直すべき時期に来ているのではないでしょうか。本当のエリートは社会事象や自然現象の中から課題を見つけて、そこから論理的に思考を繰り返し解党に導く力を有する者のことを言うのです。「偏差値エリート」をエリートと錯覚したところから誤りが発生したと思っています。

(「ホームメイト・リサーチ」)

 模範解答でつくられた国のかたち

明治時代、日本は近代国家への転換を迫られていました。欧米列強に並び立つには、軍隊、法律、教育制度などを整える必要があるというのが当時の指導者たちの共通認識でした。そこで、官僚制度を強化するために中国の科挙を模倣した高等文官試験を導入します。その試験に合格した「頭のいい人たち」が国家の中枢を占めていきました。軍隊も同じです。陸軍大学校に入るためには難関試験を突破しなければなりませんが、そこを卒業した者はエリートとして処遇されました。エリート将校が指導した軍隊が合理的な作戦を立てて勝利をするはずでしたが、実際には逆の結果が出てしまいました。何故でしょうか。

もとはと言えば、政権を執った軍閥勢力の最初の制度設計が間違っていたのです。彼らは江戸時代までの歴史や地域の多様性に深く目を向けることなく、ドイツやフランスの仕組みを急いで真似ることで制度を整えていきました。結果として、日本の政治や行政は中央集権的になり、官僚たちが「正解」を決めて、「全国一律」を押し付けるような体制が出来上がってしまいました。

戦後もこの体制は温存され、国家公務員総合職試験が高等文官試験に代わっただけで、選ばれる人の傾向も、制度のあり方も基本的に何も変わっていません。省庁別採用も明治時代以降変わっていません。財務省で採用されれば、生涯財務省に勤務するのです。キャリアとノンキャリアはそれぞれ別枠で採用します。キャリアで採用されれば、出世コースが約束されます。それも明治から変わっていません。旧来の発想で採用された人材で、しかも「正解のある世界」に慣れた人たちが、正解のない問題(少子化、地域衰退、気候危機など)に対して、画一的な対策しか打てないのは当然の帰結です。私たちは「制度があるから安心」という思い込みを捨てなければなりません。大切なのは、制度を運用する側の「問いを立てる力」「現場を見る力」なのです。

(「グロービス学び放題」)

 「問い」を取り戻すときが来た

今の日本は、まるで正解のない問題に苦しむ受験生のようです。地方の過疎化、少子化と人口減、経済の停滞、どれも教科書には答えが載っていません。それでも、公式を当てはめてなんとかしようとする――それが中央官僚たちの発想です。

彼らは公式を覚えて問題を解いてきたから、公式を当てはめることこそ解決への道と信じています。でも現実はそう単純ではありません。地域の状況は一つひとつ違いますし、人々の声は多様です。それを無視して「公式」を押し付けても、かえって問題をこじらせるだけです。官僚の発想は、地方の過疎化には移住の奨励、少子化には子供手当ての増額と無償化、というように問題ごとに政策を当てはめるというものです。自民党政治はそれに合わせて法案を作ってきたようなものです。今般の参議院選挙結果は、そういった発想では、もう通用しない時代になったという民意の表れだったと理解する必要があります。

必要なのは、「問いを立てる力」を持った人が現場に降りていくことです。「なぜうまくいかないのか」「この地域の課題は何か」と、自分の目で確かめ、考え、仲間と議論する。そのような動きが地域から生まれれば、日本は少しずつ変わっていくでしょう。今こそ、私たちは「模範解答では国を動かせない」という事実を受け止め、問いを発信できる政党や議員、そして問いを共有できる社会を育てていくべき時です。

(「家庭教師のファミリー」)

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