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中国を起源とする法治主義が、律令時代を経て、明治憲法に受け継がれることに

  • 2020年5月19日
  • 2020年5月20日
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「中国は本当に不思議な国ですよね。現代に来れば来るほど、つまらない国になってきますね」

女性

「最近、ちよっと横暴な感じがしますが、昔は魅力的だったのですか?」

「三国志の世界の国だということは知っていますよね」

女性

「司馬遷ですよね。漫画で読みました」

「漫画は横山光輝でしょ。そんなことより、古代思想がずっと日本にも流れ受け継がれています」

女性

「孔子、孟子のことですか?」

「それ以外に、朱子学もあれば陽明学もあります。韓非子ってわかりますか?」

女性

「ガタピシなら分かります」

「……(気を取り直して)。実は、中国の人達の考え方を理解するためには、韓非子の法治主義の考えを理解する必要があります」

女性

「法治主義は習いました」

「西洋近代思想の言う法治主義とは全然違います。彼らが言う法とは、あくまでも統治の手段なので、権利擁護のためのものではありません。それが分からないまま、商取引をするのでいろいろトラブルになったりするのです」

女性

「よく中国は、法治国家ではなく人治国家だと言われたりしますよね」

「法はあるけれど、法律の運用にあたって担当官の裁量次第というのがあるのです。そのため、向こうで商売する時は、役人へのプレゼントは当たり前の世界なんです」

女性

「それ、贈賄じゃあないですか」

「向こうでは、日常風景でしょう。とにかく、中国人の法意識の根底には、韓非子の法治主義の影響があります。それが、日本に入ってきて、どうなったのかを見てみることにします」

女性

「ここからが、本論です。チャンネルの切り替えをしないようにお願いします」




 法治主義の考え方は、中国が起源

古代中国が生み出した多くの思想は、現代においても多大な影響を与えていることからも分かるように、それぞれが非常に魅力的です。それらの思想や文学のレベルは多分同時期の世界の中で間違いなくトップクラスだったと思います

日本が縄文土器を作っていた時代の紀元前5世紀、中国は戦国時代を迎えます。孟子、荘子、韓非子といった後世に影響を与える有力な思想家が登場します。それを評して諸子百家の時代と言っています。

各諸侯は領土拡張を狙って毎年のように戦争をしていた時代です。各国とも戦争に勝つためには国力を上げなければいけません。人材の育成から国家組織の強化について関心が高まります。そういう時代の要請に応じて、様々な考えをもった思想家たちが政治の表舞台に登場してきたのです。

人は必要性もしくは緊急性があると考え始めます。戦争が打ち続き、負ければ国が滅ぼされ、自分の生活も破壊されるとなれば、そうならないように誰もが必死で考えたことでしょう。春秋戦国という中国の激動の時代に、多くの思想が生まれた理由です。

その中で少し遅めに登場したのが韓非子(?~前233年)です。倫理の教科書には「礼」重視の荀子の説を発展させて、法治主義を内容とする法家思想を大成させたという説明がなされていますが、遅く登場したため今までの主だった思想のエッセンスを採り入れることができたのです。

彼は「政治の要諦は法術にあり」と言っています。法とは刑罰法のことです。信賞必罰を使った人間行動の制御法のことであり、術とは法の運営方法・部下の管理方法、役人を使っての統治法のことです。そして、勢を語っています。勢とは、権勢であり、地位のことです。人々は君主の徳に従う訳ではなく、その権勢や地位に従っていると喝破します。従って、政治の要は勢であると説くのです。

この韓非子の登場により、中国(秦)は古代の時代に法治国家となったのです。紀元前3世紀のことです。その点、「『唐律』はまことに画期的な刑法典であった。これは19世紀ヨーロッパの刑法典とくらべてさえも遜色なしとされるものである」(「韓非子の帝王学」『PRESIDENT』1995.3所収)と指摘するのは法学博士の小室直樹氏です。コンスタンティヌス帝が帝国の行政組織を整備するために法典の編纂を命じ、『ローマ法大全』が作られたのは6世紀のことです。

秦王の政(せい)、後の始皇帝は韓非子の書いた著作を読み、「アア、寡人(かじん/私の意味)コノ人ヲ見、コレト游ブコトヲ得レバ、死ストモ恨マズ」(『史記』老子・韓非子列伝 第三)とまで言ったとのことです。大変な惚れこみようですが、韓非子の理論を実行して始皇帝になるのです。ただ、皮肉なことに、韓非子はその才能を妬まれて始皇帝の部下に毒殺されてしまいます。

秦は始皇帝の死後すぐに滅びてしまいますが、その後、隋、唐と大帝国が建国されます。帝国は多くの官僚の助けなしに維持することはできません。そのような大帝国を法術により維持したのです。日本は、その考え方を採り入れます。律令制度です。

 中国・韓非子の法治主義が日本の律令制の中で命脈をつなぐ

法という客観的なものによって国を治めるという考え方は、西洋よりもはるか昔から中国にあったのですこの考え方が隋、唐の王朝に受け継がれ、そして日本に移入され、律令制と名付けられることになります。日本では、700年に「令」、701年に「律」が完成します。

708年に銅が武蔵野国から採掘されたということで和同と改元をし、翌年に遷都の詔が出されます。律令制という新しいシステムによって、日本の国家をスタートさせようと考えたのだと思います。というのは、平城京は巨大な建築物による人工都市です。今、スマートシティと言って騒いでいますが、実は平城京は唐の長安を真似た古代のスマートシティなのです。ところが、この「スマートシティ」を80年位で捨ててしまうのです。「泣くよ坊さん、平安遷都」です。

それにしても不思議なのは、新しいシステムに移行するにあたって、大きな抵抗があった形跡がないことです。班田収授法とか租庸調といった新しい税制が導入され、運脚、出挙、防人などの負担もありました

地方の豪族にとっての利点を敢えて言えば、五位とか六位の位をもらって、子弟が都の官人(公務員)になることくらいです。民衆は殆ど何も利点がなかったにも関わらず、極めてスムースに制度が実施されています。抗議のデモもツイッターもなかったのです。「和」の国の真骨頂が出たのではないか、と思っています。

とにかく、律令政治は奈良時代が最盛期で、平安時代になって崩れ始めますが、形としては残りながら明治維新まで辿り着きます。だから、明治初期の「中央官制表」には「太政官」という名称になっているのです。「復活」(山川出版「日本史」教科書)ではなく、今までの流れを継続しているだけなのです



 大日本帝国憲法はドイツの猿真似憲法にあらず

憲法の基本書を読むと、西洋の人権思想を明治の憲法が受け継いだという立場で書かれていますが、違うと思います。憲法十七条、律令制といった伝統の上にたって明治憲法を捉える必要があります。また、本来、学問というのは、様々な考え方を出して、一つ一つ点検していくというものだと思います。端から決めつけるのではなく、あらゆる可能性、ルートを検証する必要があります。

ましてや大日本帝国憲法の制定に関わった金子堅太郎が「外国の憲法と日本の憲法とを併せて同一の理論を以て解釈することは抑々(よくよく)誤って居ると私は確信する」(金子堅太郎「帝国憲法制定の精神」)とし、さらに「日本の憲法学者が皇基即ち皇室の基礎を知らずして、徒(いたずら)に欧米の学理を其の儘(まま)日本の憲法に応用しようとしたときには、恰(あたか)も基礎工事の施していない地面に鉄筋混凝土(コンクリート)のビルディングを建てるようなものである」(金子 前掲論文)と言っています。

簡単に言えば、大日本帝国憲法はヨーロッパの猿真似憲法ではないと言っているのです。実際に日本人は、コピーということを極端に嫌いますし、馬鹿にする傾向があります。「猿真似」という言葉にそれは表れています。日本の国の基本となるべき法を、どこかの国のものを真似て作ることは、当時の人たちの気質から考えてもあり得ないことだと思っています

憲法の基本書を読むと、模倣したと書かれています。その影響を受けて、中学や高校の教科書もドイツの憲法を模倣したと書かれていますが、大いなる誤解でしょう。

多分、明治憲法はヨーロッパ憲法の流れを汲んでいるという思い込みから来ている誤解だと思っています。むしろ、中国の法治主義の考え方を受け継いでいるのです。

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