「なくて七癖、あって四十八癖」という言葉があるように、その人が持っている動作・行動や思考パターンというものがある。
だから、遠くから歩き方を見ただけで誰が歩いているか分かってしまうこともある。
当の本人は意外に気付いていないかもしれないが、いろいろな癖を人間はもっている。
そして、考え方の癖というのもある。大きく分けると演繹的思考型と帰納的思考型に分けられる。
演繹法と帰納法については高校「倫理」で教える。数学でも、解き方としてこの2つがあると教えていると思う。
下の例で言うと、下から上の解答を導き出すのが帰納法であり、答えがすでにあって、それらを式に代入して答えを導きだす、つまり上から下の作業が演繹法になる。
a = 3
b = 2
⇕
a-b = 1
教科書に出ている例を紹介する。左から右が帰納法、右から左が演繹法となる。
サルは死ぬ ⇔ 生き物はすべて死ぬ
犬は死ぬ
演繹的思考型というのは、自分の中にこうあるべきだというものがすでにあり、何かを決める場合に、それを当てはめようとする思考パターンである。帰納的思考型というのは、いくつかのデータをとって、そこから結論を出そうとする思考パターンである。
実際には、どちらか一方だけで考えている訳ではなく、この組み合わせで物事を処理したり判断したりしているのだが、その比重が実は「考え方の癖」として表れる。
演繹的思考型が強い人は、完全に自分の中に揺るぎない「ものさし」があり、それをあらゆるものに当てはめようとする。
「ものさし」が誰もが納得できる普遍的なものであれば良いのだが、そうでない場合は最悪であろう。
このような人が組織のトップにいると、その組織は死に絶えることになるだろう。
ただ、演繹的思考型の人でも、「ものさし」は必ずしも絶対的なものではなく、時代や状況によって変わることがあると思っている人は、柔軟に対応することができるだろう。
話が抽象論になっているので、長年関わっているテニスを具体例にして説明する。今から5、60年前のテニスラケットはウッドラケットを使っていた。
今のラケットより80~100gくらい重いということもあり、真っすぐ引いて真っすぐ打つのが基本であった。
トップスピンという言葉はなく、ドライブと言っていた。用具の進歩が打ち方を変える。その頃から見ると、打ち方の大きな変化が2回あったと思っている。
演繹的思考型が強い人だと、一度自分で基本と考えたものを頑なに守ろうとする。そして、新しい打ち方を邪道と言い始めたりする。
帰納的思考型が強い人は、沈思黙考型タイプに見えるだろう。
帰納法というのは、簡単に言えばデータサンプリングであるが、結論を出すのに、どの範囲からどの位のデータを取れば良いのかという判断は人それぞれになり、そこに個性が反映することになる。
だから少しのデータで結論を出すタイプと、あらゆるところから多くのデータを取っても、なかなか結論を出さないタイプ。
いわゆる優柔不断なタイプである。同じ帰納的思考型と言っても、タイプはまちまちである。
今、世界はその覇権をアメリカと中国で争っているが、見方を変えると、帰納的思考型対演繹的思考型である。アメリカはプラグマティズム的に物事を考える国である。
トランプ大統領はアメリカファーストということを言うが、一応、今までのアメリカの世界で果たしてきた役割を踏まえて行動している。
中国の習近平は完全な演繹的思考型である。
共産主義そのものが演繹的思考の固まりのような思想なので、こういう国を相手にすると大変であろう。
習近平がスローガンに掲げる「人類運命共同体」というのは、世界の共産主義化を目指していることを示している。
「世界やアジアの平和への責任」のために、中国が軍備増強をしなければいけないと思っている。
安倍首相は23日に首脳会談をするとのこと。演繹的思考型の人間は押しが強いのが特徴。生兵法怪我のもとなので、理論武装をして立ち向かって欲しいと思う。
何しろ、共産主義を世界に広めることが、世界の人を幸せにする唯一の道であると頑なに信じている。
ウイグルの弾圧にしても、変な宗教に走って不幸な人生を歩んでいる彼らを共産主義によって洗脳し、幸せな人生を提供しようとしている。
世界の人たちは、今は分からないが、やがて共産主義の素晴らしさに気づく日がくるだろう、と考えていると思う。
ほとんど、漫画の世界だと思うが、当人たちは真剣なので、余計やっかいである。