(この文章は4/13日に書きました)
道徳教育に一貫して力を入れてきた文科省
1958(小・中) 道徳の時間を特設
1960(高) 小、中、高等学校ともに道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うことを明示
※道徳教育の徹底を図るため、小学校、中学校には週1単位時間の道徳の時間を特設
1968,69 教育課程における道徳の位置付けは維持し、各教科、特別活動との関連及び小・中学校間の関連を考慮することを基本方針とした
2014.10 中央教育審議会答申「道徳に関わる教育課程の改善等について」
2015.3 小・中学校学習指導要領(道徳)一部改正告示
2015.7 学習指導要領解説書「特別の教科道徳編」
2016 道徳科教科書検定(小)→H29採択
2017 道徳科教科書検定(中)→H30採択
2018 小学校で全面実施
2019 中学校で全面実施
道徳の導入は、結構早く昭和33年には、学習指導要領で告示しています。それ以来、戦前の修身の復活、価値観の押し付け、生き方の強制など、様々な観点から批判の対象となったのが道徳です。教育界、特に公立学校で3大批判と言えば、日の丸、君が代、道徳です。
日教組やマスコミから、その時々において批判されながらも一途に刻苦前進して、ついに教科化まで辿り着いたのです。その文科省の努力は評価したいと思いますが、その思いがどうして成果に繋がらないのか、「道徳」がデビューして60年以上が経っています。どうして、日本は道徳社会になっていないのでしょうか。
社会の中の様々な集団との関わり方を学ぶのが道徳
原因と結果は、因果関係によって結ばれています。結果が出ないということは、考え方が悪いか方法が悪い、あるいは両方とも悪いということでしょう。私の意見は両方悪いです。道徳の捉え方が皮相的ですし、やり方も良くはありません。その方法については③で話をします。
道徳の意味は、人間の生き方という意味です。どのような生き方が良いのかというのは、社会の価値観と密接に絡み合っていますので、必ずしも普遍的なものではありません。どういうことか、社会の価値観というのは時代によって変わります。主君の名誉のために人を斬ることは封建時代であれば、罪は罪としつつも、人々の感動を生む立派な行いです。しかし、現代ではただの殺人罪として裁かれます。
社会のルール(価値観)というのは、様々な集団によって微妙に変化したりします。家族、学校、サークル、友達関係、地域など、私たちを取り巻くいくつかの集団があります。対応の仕方が微妙に違う場合が多いと思います。そのため、それらとの付き合いを煩わしいと考える人もいれば、関りが楽しくて仕方がないという人もいます。それらをどう捉え、どう関わるか、そこに将来の自分の生き方をどう重ねさせるか、そのような難しいテーマを道徳は背負っていると思います。
今の道徳教科書には、人間味、物語性、理念、の3つがない
道徳の教科化と謳うならば、教科として独立させ、その教科を教える専門の人間を養成し、その人を現場に立たせる必要があります。そのような授業を考え、組み立てるためには、それなりの専門教育を受けさせる必要があります。少なくとも、ホームルーム・ティチャーが片手間で、文科省が作った検定教科書で授業をしている限りは、多くは望めないと思います。人の生き方を教えるというのは、そんなに簡単な問題ではないからです。
そこまでする必要はないという判断なのでしょう。道徳の捉え方が皮相的です。そういった考え方が、教科書づくりに表れています。
手元に中1~中3の教科書があります。本の構成を見れば、およそ道徳に対する考え方が分かります。一つは、人間をAIロボットのようなものだと捉えていることが分かります。どういうことか、いじめは駄目だよ、人には親切にするのよ、あきらめないで努力するのよといったプログラムを注入すれば、その通りに人間が動き始めると思っているのです。目的が明らかに分かるような、作り話が多すぎます。それを読ませれば、道徳的人間になると思っているところがありますが、人間はそんなに単純な生き物ではありません。
二つ目。伝記が殆どと言って良いほど、載っていません。伝記の良い点は、その人が生きた社会のことと、そこで本人がどう考え、どう生きたのかが分かります。
つまり、2つのことが学べるのです。テニスに例えてみます。プロテニスプレィヤーの練習をいくら見ても感心はしますが、感動はしません。実際の試合をテニスコートで見るために、人はお金を出して足を運びます。何故か。感動を味わえるからです。その違いは一体何なのでしょうか。試合中の相手のボールが社会だとすると、それに対してどういうショットを選択するか、それはどう生きるかということです。どうなるか、ハラハラドキドキ、選手と同化して試合にのめり込んでいきます。そこに感動が生まれます。練習は単なる作り話。そんなものを読んでも、納得はしますが、心には響きません。中学生も考えることや感覚は一人前の人間です。大人よりも鋭い感性をもっている子も多くいます。確かに世の中や多くの人と向き合って生きた人の生き様は多くのものを教えてくれます。作り話を載せるくらいならば、プロ作家の小説の方がまだマシです。
道徳の目的は、頭で理解ではなく、最終的には生き方を変えること、つまりあの人の生きたようにと思わせることができなければ意味がないのです。そう思わせることができれば、行動が変わってくるからです。その手前で終われば、単なる「頭でっかち」を養成しているに過ぎず、そういった人間を育てているに過ぎません。
さらに良くないのは、中1の最初から話し合いをさせようとしています。座標軸が定かでない者どうしを話し合いさせる危険性が分かっていません。へんな不文律がグループやクラスで広がったり、独善的で利己的な考え方が是認されたりする危険性です。相模原で大量の障がい者殺人事件がありました。犯人は、障がい者は社会の役に立たないから殺してもよいのだ、という意見を頑なに主張し続けています。これは見方を変えれば、強固な意志の持ち主ということになります。自分の意見を曲げなくてもよい、という癖がどこかの成長過程でついたのでしよう。
人間の考え方というのも、一つの「癖」なので、へんな癖がつくとなかなか取れません。道徳の授業のやり方によっては、へんな癖をつけることになります。スポーツと同じです。何も分からない人間が教えると大体良いことはありません。それはへんな癖をつけてしまうからです。最初から話し合いというのは、テニスに例えるとラケットとボールを渡して、各自自由に練習してみて下さいと言うようなものです。これで上手くなったという話を聞いたことがありません。同じ理屈です。
三つ目は、理念がないことです。逆に、現行の道徳教科書を読んで、無色透明の道徳教科書を作ることの難しさを感じました。宗教色を出しても、特定の価値観を出してもいけない、という思いの中、出来上がったのが白々しい話のオンパレードの道徳教科書だと思います。
理念というのは、いわゆる座標軸です。座標軸がなければ、ある一つの行為がどういう意味をもつのか、それを判断する場合は、自分の経験や教師を含めた周りの意見が「座標軸」となります。何のことはない、授業を受けてもどのように判断して良いか結局分からないことになります。
実際に、道徳の教科書を使って授業をした同僚に聞いてみました。教員歴30年位の男性教員は、「書いてあることが身近というか、リアル過ぎて困った。いじめのことを授業で扱った時、泣き出した女の子がいて本当に困った」とのことでした。20代の女性教員は、「何も考えないで、教科書に書いてあることを気持ちを込めて最初生徒に読んであげました。その後、子供たちの意見、感想というふうに、淡々と授業をしました」ということを言っていました。
無色透明なので、授業がしづらいと思います。戦前までであれば、儒教の考え方に基づいて教えれば良かったし、それが座標軸になったのです。
あと座標軸として残っているのは、郷土愛しかないと思います。愛国心でも良いと思いますが、文科省は作らない(作れない)でしょう。
道徳の教科書を地方の教育委員会に作ってもらうことの提案です。場合によっては、全国共通のページがあっても良いと思います。やり方はいくらでもあると思います。とにかく「赤い血」が流れている教科書を作る必要があります。郷土の発展のために無私の心で働いた人がいると思います。郷土の文化や料理、方言発掘でも良いと思います。地域でのボランティア体験でもいいと思います。地域に目を向けさせることが、地域の活性化、ひいては人口減を止める力になると思います。
読んで頂きありがとうございました