「私、一度で良いから白馬の馬車に乗ってみたいなと思っています」
「天皇陛下と皇后雅子様のイギリス訪問のニュースを見たんでしょ?」
「どうして、分かったのですか?」
「あなたの場合は、すぐに何でも良いなと思う方なので、大体想像がつきます」
「イギリスの王室から国賓として迎えられて、何て素敵でしょう」
「王室外交はいらないという意見を言う人がいますが、交流に厚みが出ることは確かです」
「外交は化かし合いですが、王室外交はそれとは違った交流ができるので必要だと思っています」
「そもそも王室がある国が少なくなっています。中には、かろうじて王室が残っているという状態の国もあります。同じ島国であり、ある程度安定した社会を維持している両国の交流は意義深いものがあります」
「それにしても、近代に入って王室が無くなるケースが増えたのですが、あれは何故ですか?」
「簡単に言えば、それまで王権の力で民衆を抑えていたのですが、それが抑えきれなくなったのです」
「イギリスでも2回の大きな市民革命がありましたよね。それにも関わらず、どうして王室が生き残ることができたのでしょうか?」
「良い質問ですね。一言で言うと、王室が柔軟に立ち回ったからだと思っています」
「日本の皇室とは仲が良いそうですね。共通するところがあるのでしょうか?」
「昭和天皇がイギリスを訪問したのは1921(大正10)年です。まだ皇太子の時代で19歳でした」
「今回の訪問で天皇陛下が皇室外交の歴史に触れられていますよね。もう、100年くらいの歴史があるのですね」
「途中、両国にとって不幸な戦争もありましたが、実は王室と皇室の繋がりは継続していたのです」
「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「テレ朝news」提供です」
義和団事件の鎮圧が日英同盟に発展
イギリスはヨーロッパの国の中で日本と最初に対等条約を結んでくれた国です(1902(明治35)年)。ロシアを意識しての同盟でしたが、それだけではありません。一番大きな影響を与えたのが1900年の義和団事件です。義和団事件というのは、西洋人とキリスト教に反感をもった「排外主義義和団が勢力を増して各地で外国人を襲い、北京の列国大使館を包囲した」(山川『高校日本史』)事件です。
外国公使館区域には、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツ、日本など11か国の公使館が開設されており、そこに勤務する外国人925名、一般の居留民として中国人約3000名が義和団の団員に包囲されたという事件です。その反乱を鎮めなければいけない立場の清は、逆に義和団の反乱に呼応して列国に宣戦布告をしてしまいます。そのため、大騒ぎに発展します。
義和団に包囲されたので、止む無く籠城戦になります。ただ、区域内の武官や兵士は全部で481人しかいませんでした。その中で一人の日本人が獅子奮迅の活躍をします。柴五郎中佐です。英語、フランス語、中国語に堪能だった彼が地区内の日本軍を率いて戦果を上げます。
籠城戦は結局約2か月に及び、日本兵は1/5が戦死するなど多くの犠牲を出しましたが何とか鎮圧します。その後イギリスのタイムズがそのことを称賛する社説を掲載します――「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである……」。この記事がイギリスのマクドナルド公使の目に留まり、それが日英同盟として結実したのです。
(「ピクシブ百科事典」)
日英同盟は20年の短命で終わる
日英同盟はその約20年後に破棄されてしまいます。実は、その頃に昭和天皇の英国訪問(下の写真は当時のもの)が行われたのですが、ある意味皮肉な巡り合わせと言えるかもしれません。
当時は片道2カ月の船旅です。警備もその間つきっきりになります。それも含めて、国内には慎重論もあったそうです。陛下はその足跡を今回「先人が踏み固めた道」と評価されたのです。貴重な昭和天皇の「第一歩」だったと言えます。
そして昭和天皇は、後になって自分の人生で感慨深かった思い出として、その時のイギリスの旅を挙げています。今の天皇陛下もオックスフォード大学での留学時代を、若かりし時代の自由な時間を味わった貴重な1ページだったと言われています。28日は、2人にとって想い出深いオックスフォードをご訪問されたとのこと。よき想い出を重ね合わせて頂きたいと思っています。
ところで、日英同盟はもともとロシアを睨んでのものだったのですが、その帝国が革命によって打ち倒されたため、必要がないという判断が出たのです。ソ連となって脅威が消えたと思ったのでしょうが、実際には今まで以上に脅威が高まることになります。当時は、それが分からなかったのでしょう。
(「NHKニュース」)
イギリス王室はなぜ残ったのか
日露戦争、さらに第一次世界大戦を経る中で、日本はロシアに接近をし、英米と対立をし始めます。このロシアへの接近が不可解です。何か工作があったのではないかと思っています。そして第一次世界大戦の余波はヨーロッパの君主制の国に強い影響を与えます。
中世から近世のヨーロッパは、ロマノフ王朝、オスマン王朝、ハプスブルク王朝の三王朝がヨーロッパの大半を支配していました。ロマノフ王朝は1917年のロシア革命によって終焉となります。オスマン王朝は1922年のトルコ革命により滅亡します。ハプスブルク王朝のオーストリア・ハンガリー帝国はヒトラーによって滅ぼされることになります。さらに、プロイセン(ドイツ)のホーエンツォレルン家も皇帝の地位から放逐されます。
ヨーロッパの王家が悉く消滅したのですが、イギリス王室は残ります。何故なのか。調べてみました。2人の国王の「活躍」があったのです。一人は、ジョージ5世(在位1910~36)です。彼は積極的に国民の中に入っていきます。「(第一次)大戦中の4年間にジョージ5世が慰問に訪れた連隊の数は450、病院への慰問は300回、軍需工場や港湾で働く人々への激励も300回、‥‥」(君塚直隆『イギリス国王とは、なにか』NHK出版、2024)に及びます。
二つ目は、エリザベス二世(在位1952~2022)の登場です。天皇陛下が留学中に彼女に紅茶を入れて頂いたというエピソードを話されていましたが、2年前に亡くなられたエリザベス二世は、ジョージ5世の遺志を受け継ぎ、積極的に国民とイギリス連邦社会(コモンウェルス)の中に飛び込んで行きました。コモンウェルスはイギリス連邦と訳されていますが、イギリス本国を中心とした旧植民地のゆるやかな集まりのことです。現在の加盟国は56か国です。エリザベス二世がコモンウェルスを公式に訪れたのは64回、延べにして173か国とのこと。彼女がイギリス国民に国母として親しみをもって迎え入れられていたのは、それなりの理由があるのです。
民主主義の時代の王室のあり方の一端を示しておられるような気がします。
(「Yahoo!ニュース-Yahoo! JAPAN」)
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