ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

中国の対日世論の悪化の深層心理にあるもの ―— 古代日本は中国に細心の気配りをしていた / 戦後、中国との講和が遅れる

女性

「中国の対日感情が急速に悪化しているそうです」

「今日の『産経』の1面記事によると、前年度と比較して日本を良くない印象と答えた中国人が24.8%増の87.8%になったそうです」

女性

「どうして急にそんなに増えたのでしょうか?」

「SNSの影響ではないかと書かれています。悪い話が拡散したのではないかと言われています」

女性

「悪事千里を走ると言いますからね」

「だからこそ、悪しき種が撒かれないように、普段から細心の注意を払う必要があるのです」

女性

「中国の場合は、有ること無いこと悪く言うところがあります」

「中国とは友好条約を結んでいますが、関係がこじれてしまっているので、修復はかなり難しいと思っています」

女性

「それを言ったら身も蓋もありません。どこでどうなってしまったのか。過去に遡って原因を探りましょうか?」

「本当は、その作業をしなければいけないのですが、それすらもしようとしていません」

女性

「それは何故ですか?」

「明治維新まで遡ることになり、そうすると、感情的に反発する人たちがいるのです」

女性

「ここからが本論です ↓」

 古代の日本は中国、朝鮮に細心の注意を払っていた

中国という国名の通り、自分たちの国が世界の中心にあるという意識が元々ある国です。そして、実際に黄河文明・中国文明は世界の4大文明の一つとして評価されています。日本が移入したものとしては、漢字、儒教、山水画、稲作、茶、箸、陶磁器、雅楽、元号など数えきれない位あります。

古代日本は、そんな中国から様々なものを学びつつも、政治的には服属せずに対等外交を貫こうとしていました。当時の中国の外交政策は冊封体制です。周辺諸国はすべて蛮族という見方をします。その蛮族が世界の中心の国である中国に対して、礼をもって仕えるのは当たり前という考えです。現在でも、そういう意識はあると思いますが、古代日本はつかず離れずの距離を保ちながら、上手く中国と付き合っていたのです。

7世紀の唐の時代に、百済王朝の復興を図るために日本から約3万の水軍を派遣した際に、唐・新羅連合軍と戦いになったことがあります。白村江の戦い(663年)として知られていますが、日本は惨敗します。その後日本は九州に水城、日本海からの攻撃を想定して山城を6か所、防人制度を導入する等、防衛体制を整備します。そして、その一方で中国との関係修復のために669年に訪問団を派遣をしています。680年頃には修復作業がほぼ終わり、702年には遣唐使が再開されています。人間関係と同じです。喧嘩をしても、すぐに仲直りをすればまた元通りの関係になりますが、遅れれば遅れるほど修復は困難となります。今の中国とはそんな関係になってしまっています。

(「世界の歴史マップ/遣唐使」)

 中国との講和が遅れる――1970年代に入ってから

中国からすれば、先の戦争が終わってからすぐにでも何らかのアクションが日本側からあってしかるべきだったと思っているでしょう。日本からすると、戦後すぐに中国は国民党と共産党の内戦状態となり、1949年に共産党の主導によって中華人民共和国が誕生する等の混乱があったからと言うでしょう。であれば、1951年のサンフランシスコ講和会議・講和条約に当時国の中国(中華人民共和国と中華民国)を呼ぶ必要があったのですが、呼びませんでした。

もし呼んだ場合は、1つの中国をめぐって争いが起きる可能性が高いので、アメリカは呼ばなかったのです。ある意味、それが両国にとって不幸の始まりだったのかもしれません。講和の意味は、仲直りです。本来的には隣国との関係修復を優先的に考えなければならないのですが、隣国の中国、朝鮮、ソ連(ロシア)を呼んでいません。結局、中国と講和を行ったのは1970年代に入ってからです。1972年の日中共同声明、1978年の日中平和友好条約を締結して、国際法的には講和が済んだかたちになっていますが、遅すぎる仲直りなので、何かあると両国民の感情が出てしまうのです。

そして、その感情が出てくる背景がそれぞれ違っています。ここが一番厄介なところです。お互い違う場面を頭に描きながら、感情を交錯させているのです。仲直りがズレると、こういうことが起きてしまいます。中国は戦前の歴史を強く意識しながら日本を見ていますし、日本はここ最近の中国の行動を念頭に置いています

(「日本中国友好協会兵庫県連合会」)

 中国との真の和解はまだまだ先のこと

1980年代以降になって、戦前の日本の軍隊や参謀本部のあり方について分析した書籍がいくつか出版されています。大江志乃夫著『日本の参謀本部』(中公新書、1985)、三根生久大『帝国陸軍の本質』(講談社、1995)、若槻泰雄『日本の戦争責任』(原書房、1995)などです。これらの書に共通する問題意識は、日本の軍部のトップがなぜ戦略的、戦術的ミスを繰り返したのかというものです。(『日本の戦争責任』下の写真/著書の若槻氏は近衛歩兵部隊に所属し、戦後玉川大の教授になった方です。3人の中で文章が一番分かりやすく読みやすいです)。

例えば、三根生久大は「太平洋戦争の敗因については、戦後の50年、さまざまな角度から語り継がれてきた。当時『奥の院』と呼ばれ、部外者は近寄ることさえ許されなかった参謀本部作戦課作戦室の『暴走』がその重大な罪科を生んだ原因の一つだったとの事実は、いまでも意外と知られていない」と記しています。要するに、戦後50年経って関係者も少なくなって、ようやくそこまでのことが言えるようになったということです。

大東亜戦争と言ったり、太平洋戦争、日中戦争と言ったり、最近は日ソ戦争なる言葉も出ています。中国を抜きにしての大東亜戦争というのは、あり得ないと思っていますし、大東亜会議はアメリカとの開戦が始まってから開かれています。順序が逆ですし、戦争の名前さえも定まらない。このような状態では、日本が先の戦争について反省、総括することが出来にくいと思われます。中国との真の和解はまだまだ先のことでしょう。こう書くと、和解など考えなくても良いという声が聞こえてきそうです。だだをこねた幼児のようなことを言っている限りは、アメリカは日本をいつまでも半人前の国として扱うと思います。

読んでいただきありがとうございました。

よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

最新情報をチェックしよう!