「前回で予告した通り、明治維新の続きをお願いします。ところで、明治維新というのはいつのことを指すのですか?」
「明治維新を一連の動乱ということで、期間で捉える場合と、明治に改元された年ということで、点で捉える場合があります」
「何年か前に、明治維新150年ということで、確か話題になっていましたよね」
「2018年ですね。その年が改元の1868年から150年目にあたります」
「思い出しました、長州の山口、薩摩の鹿児島が記念事業ということで盛り上がっていたことを……」
「それに対して、何がめでたいものかと言ったのが『昭和史』を執筆した半藤一利さんです」
「2、3年前に、亡くなられましたよね」
「彼の歴史を見る目は鋭いものがあると思っています。常に客観的で公平でいたいという思いが強いからこそでしょうね」
「彼は明治維新については、どういう見解を持っていたのですか?」
「彼は否定的な立場だと思います。「明治維新150周年、何がめでたいのか」と言っていました」
「そういう考えに至ったということは、何か原因というか、きっかけがあったと思いますけど……」
「彼は夏目漱石や永井荷風が好きなんですが、漱石や荷風たちは「維新」ではなく「瓦解」という言葉を使っていたそうです。つまり、江戸文化が瓦解したという意味ですね」
「そんなところから明治維新そのものに疑問を持つようになったのですね」
「そもそも明治維新という言葉が使われ始めたのが明治13、14年頃なんです」
「明治もかなり経ってからなんですね。ここからが本論です ↓」
歴史の基軸をどのように設定するか
「歴史事象は常に歴史の基軸から判断しなければならない」ーー近代化したとか、植民地にならなかったとか、戦争に勝ったという勝手な指標を立てて、それをクリアしたので評価するという考え方は間違っています。東洋経済特約記者のリチャード・カッツ氏は「五箇条の御誓文によって封建主義は終わりを告げ、身分制度から解放された」としていますが、この見解がある意味定番の評価なのかもしれません。これは、因果の捉え方が間違っています。
「五箇条の御誓文」は今でこそ教科書に大きく取り上げられていますが、実際には15歳の年少の明治帝が公卿や一部の大名に発表しただけで、一般に公開していません。だから、明治初年の政府の要人でも、御誓文を知らない人が多かったのです。そもそも起草者の一人の木戸孝允(たかよし)自身が数年後に政府の専制に憤慨して、そういえばということで思い出した程度だったのです。
何かの文書が発表される、法律や条約が公布される、それだけで社会が動く訳ではありません。仮に動いたからといって、それをそのまま評価することは間違っています。あくまでも歴史の基軸から判断する必要があるのです。先のリチャード氏は独立宣言を社会が評価するように、明治維新を評価すべきだと言います。独立宣言はアメリカの原点ですが、明治維新は原点でも基軸でもありません。比較して論じることでは、ないのです。下のイラスト、「日本の歴史の全体が見えてくる」とありますが、間違った日本のすがたが見えることはあっても、全体像が見えることはありません。
(「朝日新聞デジタル」)
基軸が定着した実際の姿を江戸時代に見ることができる
日本のように世界一古い歴史を有する国は、その歴史の中で受け継がれたものがあります。それが基軸であり、その国のアイデンティティです。日本の基軸が定められたのは、古代の天武・持統期です。そしてそれが長い歴史の中で基軸として定着していきます。だから実際の態様は江戸時代を見れば分かります。江戸の時代は260年間天下泰平の時代を築くことができました。それは基軸に則った統治が行われていたからです。
統治のかたちは、天皇と将軍とによる「2人3脚」統治です。天皇がシラス者として大所高所から日本を見守る存在。実際の日々の政務は、権力者の将軍が行うというかたちです。将軍が政務を行う幕府と諸藩との関係は分権体制です。諸藩の大名は自分の領地をいかに発展させるか、そこが頭と腕の見せどころと思っていたはずです。だから大名は競って藩校を建て、藩独自の教育と人材育成プランを持っていたのです。
江戸時代を中央集権体制だと思っている人がいますが、法制度的には地方分権体制です。中央集権であれば、中央で養成された官僚が地方に派遣されるはずですが、そのようなことはありませんでした。藩主はその藩にとって相応しい人が、藩の中から選ばれていました。領民は「おらが邦(くに)」の故郷意識を持っていたからこそ、方言が生まれ、その地方独自の食文化や芸能が生まれたのです。明治政府が行った国づくりは、これとは真逆でした。中央集権国家をつくるために廃藩置県を断行したのです。中央集権体制のため、これと言った文化も生まれませんでした。近代文学くらいのものです。
(「You Tube」)
天下の愚策、「神仏分離令」
日本は神仏習合の国です。この基軸も天武・持統期につくられました。神道というのは、開祖も経典もないので、厳密に言えば宗教ではありません。哲学的にはアニミズム(精霊崇拝)であり、分かり易く言えば自然宗教です。それが縄文から弥生の時代にかけて成立し、6世紀に仏教が百済から伝わり、様々な経緯がありつつも融合していくことになります。
家の中に神棚と仏壇があることに対して、外国人は違和感を持つようですが、近くの祖先を仏壇で拝み、遠くの祖先を神棚で拝むということです。人は死ねば、やがては神仏となり自然の山河に還っていきます。神仏習合の慣習が、人々の宗教心の醸成と自然保護の役割を果たしたことは確かです。警察や刑務所がない時代なので、治安維持のためには、宗教心の醸成が大事なテーマなのです。
そういったことに対する無知が「神仏分離令」を生み、廃仏毀釈運動につながります。分かり易く言えば、寺院、仏像破壊運動が起きたのです。奈良の興福寺では、歴史を刻んできた二千体以上の仏像が破壊されています。神道は国の保護を受けるかたちで国家神道となります。明治政府は神道を統治の道具として使おうと考えたのです。
(「note」)
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