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「少子化・人口減」という「第二の敗戦」 (その3) ――― 日本は「和」によって形づくられた / DNAが明かす古代国家の本質

  • 2026年3月26日
  • 歴史
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女性

「前回の話で、大化の改新は失敗したという話でした。なのに、どの教科書も太字扱いです。それは、どうしてですか?」

「現在の政権は、敗戦をはさんで明治時代から継続しています。この政権が中央集権国家をつくったので、その原点を大化の改新と捉えているのです」

女性

「大化の改新―明治維新、そして現在という流れとして理解させたいということですね」

「強い日本はどのようにして作られたのかという発想です。しかし、日本は元々、聖徳太子によって和の国として制度設計されていました。十七条憲法は役人の心得を説いたというレベルの低い見方がありますが、家族主義的国家観を説いたものです」

女性

「和の国なのか、強い国なのか、ということですね。高市総理も強い経済と言っていますね」

「今の自民党は明治維新の流れを汲む保守政党ですから、そういう言葉が出てくると思います。日本という国は、縄文人と大陸や半島から渡来してきた弥生人が融合して作った国です」

女性

「そういった歴史的背景を踏まえて和の国と言ったのでしょうね」

「縄文時代が約1万2千年あり、縄文社会がある程度作られたところに弥生人たちが稲作と金属器を携えて日本列島に渡来してきます」

女性

「争いが起きてもおかしくないですよね」

「大きな争いが起きた形跡がありません。DNA分析によって、縄文人と弥生人は長い時間をかけて混血が進んだということが分かっています」

女性

「そういった歴史的事実を踏まえて和の国と言ったのでしょうね。ここからが本論です ↓」

 日本は「移民の融合」によって成立した国

近年、歴史研究の分野において、古人骨や植物の“破片”からDNAデータを採取し、それを分析する手法が用いられるようになりました。そのことによって従来の文書史料や考古学資料だけでは分からなかった事実が次々と明らかになっています。分子生物学の進歩が歴史の解明に寄与していると言えるでしょう。

その一例としては、かつて有力視されていた「騎馬民族征服説」の否定ですこの説は、江上波夫氏によって戦後すぐの時期に唱えられたものです。要するに辰王―任那王―倭王というように1本の線で結びつけた上で、任那王が北九州に侵攻して日本を征服し、倭王として即位したという説です。その任那王こそ第10代の崇神天皇であり、その根拠を『古事記』の中の記述に求めます。崇神天皇について、『古事記』は「初国知らしし……天皇」と表現しているからです。

この説は、日本が外部からの強力な支配者によって統一されたという歴史像を提示しました。そして、江上氏はそのように統一されたからこそ、日本は文化的に発展できたと説いたのです。それなりに説得性があったため、1990年代の頃までその説を支持する声が学界にもあったのです。しかし、三内丸山遺跡の発掘により縄文文化のレベルの高さが分かり、DNA解析によって縄文人と弥生人の融合が広範囲にあったことが分かったので征服説は成立しない話となったのです。

(「日本の古本屋」)

 「和」の思想は融合国家の必然であった

日本が強者によって統一されたのではなく、そこに集った人たちが融合して作った国だということがDNA解析によって明確になりました。さらにその解析によって近年唱えられているのが「3重構造説」です。縄文期、弥生期、古墳時代の3期に大きな融合(混血)があったとする説です。すなわち、半島や大陸、さらには南方の島々から列島に集った人たちが長い年月をかけて融合し、「日本人」が形成されたというのです。

その視点から聖徳太子の『十七条憲法』を読み直すと、「和」という言葉の意味がより深く理解できますそこに示された「和」とは単なる道徳的理想ではなく、多様な背景を持つ人々が共存するための現実的な統治原理だったのです。そして聖徳太子は国家が一つにまとまるためには、上に立つ人間が下の者に寄り添うことが大事だと説きます。日本独特の家族主義的国家観です。家族に長が必要なように、国がまとまるためには大王(天皇)が必要であり、その立ち居振る舞いが重要という認識だったのです。今の皇室を見れば、そういった伝統が受け継がれていることが分かると思います。

イソップ物語に太陽と風と旅人の寓話があります。北風と太陽が「どちらが旅人の上着を脱がせられるか」という力比べをします。北風が力いっぱいに風を吹き付けると、旅人は寒がってよりしっかり上着を着込んでしまいました。一方で太陽がぽかぽかと暖かく照らすと、旅人は自分から進んで上着を脱いだという話です。太陽のような温かさで国中を包んでしまう。そうすれば自ずと国はまとまっていくという考えが『十七条憲法』に込められています。そして、この考えを受け継いだのが天武天皇です。天照大神を最高神と位置付けたのも、統治の根本に「力」ではなく「包摂」を据えるためだったと考えられます。日本の先人たちは、強い国ではなく、優しい国、和の国を目指したのです。そして、実はそれが弱いようで強い国だということが分かっていたのです


(「世界文化社グループ」)

 古代国家の統治構造と「和」の制度化

明治期に成立した政権は、御用学者を使って歪んだ日本の歴史を定着させようと画策してきました。聖徳太子は存在しなかったというトンデモ説を突然言い出したりしたこともありますが、強い国を押し出したい政権にとって聖徳太子は“目の上のたんこぶなのです。本音では消し去りたいと思っているでしょう。

古代において強い国を作りたいと思った天皇が天智天皇です。蘇我氏を滅ぼし、「公地公民」を掲げて中央集権国家を作ろうとします。ところが、これは上手く行きませんでした。結果的に失敗ですが、そういうことを書いている教科書はありません。教科書検定で最もチェックされている箇所だと思っています。大化の改新があり、その後、天武天皇の時代に律令制が導入されますが、その律令制は地方分権を前提にしたものです。しかし、そんなことを説明している教科書はありません。「錯覚」を利用して、間違った日本史を定着させようとしてかのようです。

律令制が導入され、「神祇官―太政官」体制が採用されます。太政官(太政大臣)が実際の統治を担います。神祇官は天皇を中心とする祭祀を司りました。ここで重要なのは、天皇が直接的な「力の行使者」ではなかったという点です。むしろ、象徴的存在として国家全体を包み込む役割を担っていました。

この構造は、先の「北風と太陽」の寓話に重ねることができます。実務を担う太政官が「風」であり、シラス者の天皇が「太陽」です。太陽と風の両者が協力すれば上手くいくという考えがそこにはあります。それを組織として採用したのが「神祇官―太政官」の律令制であり、目指したのは聖徳太子が掲げた和の国だったのです。

(「ameblo.jp」)

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