ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

天皇の政治的意志を塞いだ二重構造 ―― 明治立憲制の欺瞞的合理性 / 統帥(とうすい)権と輔弼(ほひつ)権

  • 2025年11月15日
  • 歴史
  • 1view
女性

「前回のお話は、少し驚きました。明治憲法のイメージが少し変わりました」

「明治憲法ではなく、伊藤憲法と思った方が分かりやすいと思います」

女性

「彼は国会開設に尽力したというのが、専らの評価ですが、その辺りはいかがでしょうか?」

「国会議事堂に伊藤博文像が立っていますので、そういった評価があることは確かですが、彼は議会制民主主義を採用するつもりは全くありませんでした。だから、それを主張する大隈重信一派を放逐したのです(明治十四年の政変)」

女性

「軽視していたから多くの条文を用意したというのは、面白い視点ですね」

「議会を協賛機関にして、会期もわずか90日です。それだけで彼の本音が分かります。そして、帝国憲法の構成を紹介すると、第1章が天皇で17条使い、第2章が臣民権利義務で15条分あります。第3章が帝国議会で21条あり、この3つで54条もの分量になります。帝国憲法は全部で76条しかありませんので、これだけで7割を占めます」

女性

「これをそのまま素直に見れば、天皇に大きな権力を与え、それを議会がコントロールするような考えなのかなと思うでしょうね」

「そうではないというところに伊藤が策士と言われる所以があります。ところが、それをまともに受け取っている政党が共産党です。「当時の日本は天皇が内政、外交の全体にわたる絶対的な権限をもち……」とか「天皇絶対の専制政治」(『日本共産党の百年』)と言っています」

女性

「いまだに勘違いしちゃっているのですね」

「戦前の日本の政治を実際に動かしたのは陸軍省、海軍省の軍事官僚と行政官僚です。それを実際に理解してもらうために、今日は国際連盟脱退(1933年)の経緯について述べてみたいと思います」

女性

「昭和に入った頃の出来事ですね。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「nippon.com」提供です」

 「統治権の総攬」と「輔弼責任」の矛盾

明治憲法は、「統治権の総攬」という表現によって天皇の国家的地位を定義しました(1条、4条)。ところが同時に、第55条で「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス」と明記し、天皇の国務行為はすべて大臣の輔弼を要するものとしました。この二つの条文の並立は、制度的には「天皇の統治」と「大臣の責任政治」とがねじれた構造を形成することを意味しました

すなわち、天皇は「統治権者」でありながら、実際の政治行為を行うには必ず大臣の輔弼を必要としたのです。その結果、天皇の政治的意志は制度上常に輔弼によって媒介され、実質的な統治主体は内閣および軍部に分散する形で運用されました。

表向きは「立憲君主制」(下のイラスト)の体裁を整えていたのですが、その実態は天皇の権威を利用しつつ、天皇の意志を制度的に拘束する政治構造だったのです。

(「日本史事典.com」)

 国際連盟脱退にみる制度的拘束の実相

その構造的矛盾が一番よく分かる事例が、1933年の国際連盟脱退劇です。リットン報告書が採択され、日本の満洲国承認が否定された際、日本全権松岡洋右は抗議の意を表して退場します。しかし、昭和天皇は外交的孤立を憂慮し、内大臣牧野伸顕に「詔勅をもって脱退を回避したい」との意向を示します。しかし、この意志は閣僚の手により封じられてしまいます。外交は国務事項であり、詔勅を発するには大臣の輔弼が不可欠だったのです。従って、天皇が自らの意志を直接表明することは憲法上不可能だったのです。

しかも、当時の政治構造においては、外交を所管する内閣と、軍事を所管する参謀本部・軍令部が相互に独立しており、双方が天皇の権威を盾に自律性を主張していました。天皇は名目的には陸海軍を統帥する立場にあったのですが、その実、統帥権は軍部が独占的に運用していました。こうして天皇の政治的意志は、統帥権の壁と輔弼権の壁という二重の制度的拘束によって完全に封じられていたのです。

この二重拘束のもとでは、いかに天皇が危機意識を抱こうとも、制度上それを政策として具現化する経路が存在していませんでした。天皇が沈黙を選んだのではなく、沈黙を余儀なくされたのです。「制度的に閉じ込められた統治権者の沈黙」だったのです。

(「東京歴史倶楽部(トウレキ)」)

 「合理的制度」の虚構と帝国憲法の欺瞞性

帝国憲法は、ヨーロッパ型立憲主義を模した「合理的制度」として設計されたというのが一般的な評価です。しかし、明治憲法の実態を見れば、それは権力の分立を装いながら、むしろ天皇の統治権を空洞化させ、政治権力を自由に行使するためのアリバイとして設計された体制であったといえます。

帝国憲法には内閣の規定もなく、内閣総理大臣の明文化もありません。元老の存在は憲法上の根拠を欠き、枢密顧問という言葉こそありますが、枢密院そのものの構成や権限に関する規定は存在しません。すなわち、国家の政策決定に実質的に関与する重要機関の多くが、憲法上は「存在しない制度」として運用されていたのです。これは制度の未整備ではなく、意図的な空白です。つまり、天皇の名を借りながら、実際には天皇の意志を無視して自由に政治を行うことを可能にする「操作空間」を確保するための構造的設計だったのです。

帝国憲法は「未成熟な立憲制」ではなく、むしろ、それは統治権者の意志を制度的に封じ込め、政治権力を恣意的に行使するための方便として作られた憲法だったのです。国際連盟脱退の事例は、その欺瞞が最も明確に露呈した瞬間です。天皇は「統治権者」でありながら、その意志を政治に反映させる経路を奪われ、制度の名の下に沈黙を強いられたのです。

このことは、近代日本の立憲体制が本質的に権威と権力を分離させ、責任を曖昧化するための政治装置であったことを示しています。統帥権と輔弼権――この二つの制度的壁は、単に天皇の意志を封じただけでなく、国家そのものの統治主体を空洞化させました。帝国憲法が掲げた「立憲の名」は、実際にはその裏で、天皇の政治的意志を無効化し、政治を恣意的に運用するための隠れ蓑として機能していたのです。

(「朝日新聞」)

読んでいただきありがとうございました。

よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

最新情報をチェックしよう!