
「前回のお話は、少し驚きました。戦前の天皇のイメージが少し変わりました」

「帝国憲法で統治権者と規定されているにも関わらず、輔弼(ほひつ)権と統帥権に挟まれて実は何もできなかったのです」

「それじゃあ、今の象徴と同じということですね」

「実質的には同じです」

「歴史の授業では、確か主権者と習った記憶があります」

「それはあくまでも、憲法解釈上の言葉です。実際には違っていました。会社の内規と実態が違うことは良くあることでしょ」

「そうですね。うちの会社なんか、社長がお飾り的で副社長が実質的に仕切っています」

「国のレベルでも、そういうことがあるということです」

「ところで、今日は少し大きなテーマを扱いたいということですよね」

「今の歴史教科書の中には、問題がある記述がいくつかありますが、最も問題なのが「封建社会」という言葉です。これを問題にしたいと思っています」

「ここからが本論です ↓テーマが大きいので、少し文章が長めになります。予めご了承下さい。表紙イラストは「note」提供です」
「封建制」という誤った概念の輸入
日本の歴史学は、明治末期から今日まで「鎌倉から江戸まで=封建時代」という分類を続けてきました。しかし、この概念は本来、中国古代の「周王が諸侯に土地を分封する」という儒教的政治制度を指す語であり、日本史の実態とは全く異なります。にもかかわらず、1900年頃に「feudalism」の訳語として転用され、さらに「江戸時代=後進的な封建社会」という明治政府の政治的要請に結びつけられる形で固定化してしまいました。
ところが、欧州型封建制の核心は「領主の土地所有」と「農奴制」であり、土地と農民を支配の基礎とする制度でした。これに対し、日本では武士が土地所有権を持ったことは一度もありません。知行地は中世・近世において、大名が家臣に与えた、土地からの収益を得る権利に過ぎません。現代的に言えば、武士は徴税権を持っていただけです。江戸時代において、大名の領地替えが頻繁に行われていたので、大名も領主でないことがこれで分かります。つまり、大名・武士は西洋で言うところの領主ではなく、中央権力(天皇・幕府・藩主)に奉仕する軍事官僚でした。農民も土地の所有権を持つ自由民であり、農奴ではありません。
日本には領主も農奴もいなかったということです。つまり「封建制」という言葉を日本に当てはめるのは不適切、日本には、封建社会の時代はなかったということです。

(「グシャの世界史探究授業」)
千百年にわたる日本の本質は「地方分権国家」
日本の律令制は天武期に成立をします。そこで成立をしたのが「シラスーウシハク」態勢という権力と権威を分離して日本全体を統治するシステムです。地方豪族の統治を容認する一方、その豪族と権威者が委任関係で繋がるというかたちです。その後の武家政権(鎌倉・室町・江戸)も、将軍の権威のもとで全国の実務は地方の武士団が担う分権型国家でした。日本の律令制の約千百年間は一貫して地方分権であり、ヨーロッパ的封建制とも、中国の分封制とも異なる独自の統治方式なのです。
江戸時代が「シラスーウシハク」態勢の完成形でした。300以上の藩がそれぞれ行政・司法・財政・軍事を担い、幕府はその上に立って調整する「多中心的国家システム」が成立していました。そして、その幕府の将軍は朝廷によって太政官の大臣、つまりウシハク者として認定されていたのです。シラス者の天皇とウシハク者の将軍による「二人三脚統治」がなされていました。
ところが、明治政府は自らの中央集権化を正当化するため、「江戸時代は封建的遅れ」、「明治は近代化」という物語を編み出します。そのため、歴史教科書に「封建制」という誤った概念を流し込み、前時代を過度に貶める叙述を行いました。これは、学術的な分類ではなく、政治的意図による概念操作(プロパガンダ)にほかなりません。

(「スマート選挙ブログ」)
「五公五民」もプロパガンダだった
「江戸時代は年貢を半分取られた」という「五公五民」も実態とはかけ離れています。物納の時代に人口の85%を占める農民から収穫の半分も徴収すれば、幕府も藩も大量の消費し切れない米を抱えることになります。実際の税負担は、地域差はあるものの1~2割程度であったと推察されます。その程度で残りの15%の町人や武士たちといった非生産階級の人たちの食を賄えたはずです。
それにもかかわらず「五公五民」が普及した背景には、江戸時代を「搾取の時代」として描く明治国家の政治的目的があったと思われます。そして、税金とはその位取られるものだという刷り込みに利用した節があります。また、戦後のマルクス史学が「封建的搾取構造」の象徴として利用したこともありました。つまり、「江戸=暗黒、明治=光明」という「成功物語」を成立させるために、歴史認識が意図的に形成されてきたのです。
日本の学界はなぜ「封建制」を訂正できないのでしょうか。本来、学問には「誤りを訂正する勇気」が必要です。しかし現実には、学界には以下の制度的惰性が働いています。①封建制概念を撤廃すると、教科書・受験制度・研究領域の枠組みが総崩れになる。②歴史叙述の大改訂には膨大なエネルギーが必要。③「前近代=封建=後進」という近代史観が政権と教育制度に深く組み込まれている。

(「星雲のこころざし」)
今こそ、封建制概念の訂正を
しかし、これらはいずれも「学問の正しさ」を理由に拒絶されるべきであり、訂正しない理由にはなりません。誤った概念を維持するために、後世の学習者に誤りを教えるというのは、学術の名に値しない行為ですし、何のための検定制度なのか分かりません。
日本史を正確に叙述するには、封建制という外来概念を前提にするのではなく、以下の特徴に基づく新しい枠組みが必要です。①日本の武士は土地所有者ではなく行政官僚。②農民は土地所有権を持った自由民。③幕藩体制は多中心的な地方自治ネットワーク。④約千百年にわたり地方分権国家が持続された。⑤明治中央集権化は日本独自の「シラスーウシハク」制度の解体であった。つまり、日本の国体は明治時代に瓦解していたのです。今の政権は明治の政権と「地続き」です。彼らは特に⑤を国民に広く認識されることを恐れています。そのため、様々なプロパガンダ(操作された情報)を流しているのです。
以上の視点に立てば、日本史の叙述は大幅に再構築されるべきです。そして、この作業を先送りすることは、誤った概念を次世代に押し付けることを意味します。「封建制」というレッテルを貼り続ける時代は終わりました。歴史学界は、実態に即した新しい歴史像を構築すべき時期に来ています。国民に誤った歴史を流して、騙し通す時代は終わりにしましょう。

(「識学総研」)
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