「今回も『ザイム真理教』の話題でいきましょうか。しかし、マスメディアの効果は絶大ですよね。森永卓郎という名前で本が売れてしまうのですから。内容が大したことがなくても」
「最初から、きつめのジャブという感じですが、私もあの後、本を読ませて頂きました。財務省だけでなく、政府関係者とか国家公務員に対して、やっかみみたいな感情をもっていらっしゃる方なんだということは分かりました」
「財政政策について、ご自身の主張を貫けば良いのであって、公的な機関やそこに務める人たちを貶めるような発言は慎むべきでしょうね」
「『教祖と幹部の豪華な生活』という章があったので、何かしらと思ったら、日銀総裁と国家公務員のことでした」
「彼らの懐具合が気になって仕方がないみたいですが、経済とは殆ど関係ないのに、コト細かく書いています。あと、決めつけ的な書き方が多いですね。思い込みが激しい人なんだと思います」
「こういう一文があります。「子どもにはさまざまなコストがかかる。子どもは納税しないから、純粋な持ち出しだ。だから、財政的に一番負担の小さい社会は、子育て期間にいる女性を全員労働市場に引っ張り出して、税金と社会保険料を払ってもらうようにすることが、財政収支改善に一番役に立つのだ」。女性は奴隷ではないと思いました」
「言っていることが極端なんですよ。財政収支改善はいらないと言っておいて、子どもと家庭内の女性は経済的な価値を生まないということで敵視するような意見を平気で書いています」
「子どもは確かに持ち出しかもしれませんが、それはあくまでもその時点での話ですから。いつまでも子どもではありませんからね」
「上手く育てれば、大谷選手の様に金の卵を産むようになるかもしれませんからね」
「女性も同じですけど……」
「そうですね。失礼しました。とにかく、物事は固定的に見ないということでしょうね。特に経済関係、社会関係は常に動いていますから……」
「ここからが本論です ↓ 表紙は「note」提供です」
日本経済が成長できなくなった理由
日本経済が成長できなくなった最大の理由は、「急激な増税と社会保険料アップで手取り収入が減ったため」というのが森永氏の分析結果です。ただ、彼の場合は財務省を諸悪の根源としたいがため、増税と社会保険料に原因を求めているだけだと思っています。
経済の三主体は、政府、企業、家計です。それぞれが支流でそれらが合流して一つの大河となるイメージです。過去5年間の成長率は、0.2%(2018)→マイナス0.8%(2019)→マイナス4.1%(2020) →2.6%(2021) →1.3%(2022)です。データで見ると、5年間でゼロ成長です。どうして、こうなったのか。
経済の三主体と言っても、中心的に牽引する役割を担うのが「企業」です。この企業が産み出す財やサービスにどの位多くの付加価値を付けることが出来るか、ここが一番肝心なところです。付加価値を付けた高品質なものを産み出すことができれば、国内外の市場で利益を得ることが出来ます。森永氏は急激な増税と社会保険料アップで家計の購買力が弱くなったから日本経済が成長できないと言っていますが、消費市場は国内だけではありません。海外にもあるので、高付加価値な製品やサービスを産み出すことが出来れば、日本ブランドとして売ることができますし、増税、社会保険料アップを乗り越えて経済成長できるのです。
(「ビズクロ-Chatwork」)
人的資本を開発しない限り経済成長はない
なぜ、それが出来ないのか。一言で言えば、人財を育成していないからです。金の卵を産むように人を教育とリカレント教育によって育てることが必要です。森永氏は教育については、全く無関心なようです。「子どもにはさまざまなコストがかかる」と言っていますので、経済的にマイナスの存在としか見ていないようです。
21世紀こそ教育の内容が問われる時代だと思っています。20世紀までは底辺を広げる発想で良かったと思います。広く浅く就学率を高め、国民の知的レベルのかさ上げを図っていく。その旗振り役を担ったのが文部省(現文科省)です。
文科省は義務教育普及など、それなりの役割を果たしましたが、21世紀の自由競争時代を引っ張っていく発想はありません。考え方というか体質が社会主義的です。21世紀に求められる教育は、個別具体的な教育です。今までは、個というより集団を考えて、その集団をどう教育するかという発想でした。それでは国として21世紀を勝ち抜くことは出来ません。異能の子どもを見出し、特別な教育プログラムによって頂点を高くする。それを英才教育と言うかどうかは別にして、そういった発想が欲しいのです。
森永氏には、そういう考えはひとかけらもありません。経済学者は経済のことだけを考えれば良いのではなく、経済発展するための社会システム、特に教育システムのことまで考える必要があると思っています。
(「インソース」)
数字を整えることがその国の信用につながる
財政について均衡論と不均衡論の2つの考え方があります。理屈はそれぞれそれなりにあります。どちらが正しいかという論争するのではなく、とにかくハッキリしていることは、他国は「数字」を見ているということです。
どういうことか。例えば、我々が会社をどのように評価するかと言えば、その会社が外部に向けて発表するデータに基づいています。当たり前ですが、本社ビルを見ても何も分かりません。外見からは実は何も分からないのです。その会社の株を買う時に、社長のあいさつ文を読んで買う人はいません。会社の経常利益やPER(「Price Earnings Ratio」/「株価収益率」)やEPS(「Earnings Per Share」/1株当たりの純利益)といったデータを経年で見て株を購入します。結局、その会社がどのように利益をあげてきたのか、データを見て判断しているのです。
実は国の経済も同じです。外に向けて発信するデータがすべてと言って良いのです。日本政府の国債残高が他国と比べて多いことは、外国の当局者は分かっているはずです。状況が悪くても、「改善されたし」といった内政干渉的な発言はできません。腹の底で「だらしない国」と思っているかもしれません。
国の信用というのは、3つの側面から試されます。政治と経済、そして平和に対する貢献です。それらがクリアされることによって、国際的な信用が得られるのです。経済分野の中には、当然財政運営が入ります。屁理屈を並べて「いくら国債を発行しても経済破綻しないから大丈夫」ということではなく、国債発行残高も経済的な信用項目なので、減らす努力をすべきなのです。
(「東京新聞」)
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