
「『大東亜戦争肯定論』という題名の本が出たそうです」

「ついにそういう本が売られるような時代になったのですね」

「喜ぶべきなのか、憂うべきなのか、どう思いますか?」

「それを聞きたくて、今日は訪ねて来たんですよ」

「終戦記念日が近くなると、大東亜戦争という言葉が飛び交うようになることは確かです」

「私の感覚では、一時期より、よく聞くようになったと思います」

「私の子どもの頃は、殆んど聞かない言葉でしたけどね。ただ、父はいつも大東亜戦争と言っていました」

「不思議に思わなかったのですか?」

「不思議でしたよ。学校では、「第二次世界大戦」でしょ。家の人は「大東亜戦争」。何故なのかなと思っていました」

「聞いたのですか?」

「聞くと怒り始めるので、聞けませんでした。父は兵隊に行ったことは確かですが、余り良い思い出はなかったからだと思います」

「結局、何も話さなかったのでしょ」

「全部封印して、あちらの世界に逝ってしまいました。ここからが本論です ↓ 表紙の写真提供は「毎日新聞」です。 なお、次回の配信は8/6になります」
「大東亜戦争」という呼称をどう考えるか
近年、『産経新聞』などが「大東亜戦争」という呼称を積極的に用いる論説を掲載することが増えています。そのような論調が現れると、関連書籍の出版が相次ぎ、一種の言説の流行ともなります。これはある意味、必然的な流れと言えるかもしれません。
「大東亜戦争」という名称は、1941年12月12日に情報局が発表した声明に基づいています。この中で「大東亜戦争と称するは、大東亜秩序建設を目的とする戦争……」とし、アジア諸民族の解放を目的とする「聖戦」であると宣言されました。
しかしながら、その呼称や理念が客観的に妥当であるかどうかについては、慎重に検討すべきです。歴史の一断面だけを取り上げて判断すると、ABCD包囲網から太平洋戦争に至る経緯を「自衛のためのやむを得ない戦争」とする見方も成立してしまいます。社会事象を評価する際は、ミクロ(個別事象)とマクロ(国際環境や時代の流れ)の両視点から判断する姿勢が必要です。新聞が「公器」である以上、歴史用語の選定にも一定の責任と熟慮が求められます。
(「NHK」)
第一次世界大戦後に訪れた「協調の時代」
日本は日露戦争後、国力の増大に伴い自信を深め、より積極的に国際社会へと関与し始めます。しかし、その過程で視野が狭まり、国際的な潮流を見失っていく面も否めません。
第一次世界大戦では、日本は欧州戦線に直接関与しておらず、戦禍の中心にはいませんでした。しかし、この大戦は人類史において大きな転機となりました。戦車、戦闘機、機関銃、毒ガスといった近代兵器が導入され、戦死者約900万人、負傷者約2,000万人という未曽有の被害をもたらしました。これにより世界各国は深く反省し、「二度と戦争を繰り返してはならない」という強い思いが広がります。
この流れの中で、1920年には国際連盟が設立され、日本も常任理事国として参加しました。さらに1928年には「不戦条約」が締結され、日本もその一員となりました。国際社会から一等国として認められた日本は、本来であれば協調と平和の道を歩むべきでした。しかし、時代の潮流に逆行するかのように、国内では軍部の発言力が強まり、やがて破滅の道へと突き進むことになります。
(「Rinto~凛と~-Rinto」)
満州事変と戦争への道――国際協調を裏切った日本
1931年、南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」を契機に、日本は満州事変を引き起こします。この事件の背後には、関東軍の独断専行と、それを抑制しようとしなかった本国政府の姿勢がありました。事件の直後には日本軍による都市爆撃や中国正規軍との戦闘が始まり、チチハルなどの占領が進みます。こうした行為は、1928年の「不戦条約」および1922年の「支那に関する九カ国条約」に明確に違反していました。特に後者は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本などが中国の主権・領土保全を保障した条約であり、日本の行動はその約束を反故にするものでした。
このため、アメリカを中心とした諸国は日本に対して経済制裁を発動します。いわゆる「ABCD包囲網」です。アメリカ、イギリス、中国、オランダが連携して日本への石油や資源の供給を停止し、日本に対して満州からの撤退を求めました。
これに対し、日本は「大東亜共栄圏」の理念を掲げて対米英戦争に突入します。その際に掲げた戦争名が「大東亜戦争」でしたが、この名の下で行われた戦争の実態は、アジア諸国を巻き込んだ侵略戦争に他なりません。後付けの理屈による「無理筋」と言わざるを得ません。
(「www.vill.yomitan.okinawa.jp」)
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