
「前回は戦後移民の問題でしたが、今まで知らないことが多くありました。まだ、続きがあるのですね」

「ドミニカ移民の悲劇の話と国会のあり方について、話をしたいと思います。ドミニカ移民の悲劇は2006年に政府が補償を払って解決しましたが、余り世に知られていない問題です」

「ドミニカ移民というのは、ドミニカ共和国へ移民として行った人がいるのですね」

「カリブ海に浮かぶ島国ですが、そこと1956年に移民協定を結び、日本から1961年までに1,300人が移住したのですが、電気、水道といったインフラ整備もなく、見渡す限りの荒地に移住したため、マラリアや栄養失調で死者が続出したそうです」

「それは災難でしたね」

「そんなことで、1981年に移住者の一部が政府相手に国家賠償請求訴訟を起こします」

「それが先程おっしゃっていた補償ですね。それが払われたということは、政府の非を裁判所が認めたということですね」

「政府というか外務省ですけどね。ロクに現地の条件を調査せずに、相手の言うがままに日本人を送り込んでしまったみたいです」

「初歩的なミスだと思いますが、そもそも戦後の復興期に何で他国に移民として送り込まなければいけないのか、その辺りの考えに問題があると思います」

「大局を見て判断する力が弱い国なんです。日本は……」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「ビジネス+IT」提供です」
制度と官僚機構の惰性が支えた移住政策
海外移住政策が長く続いた背景には、制度と官僚機構の惰性が大きく影響しました。1952年に海外移住振興法が成立し、1963年には海外移住事業団が設立されました。これにより移住政策は法的枠組みと実施機関を伴い、国家の恒常的な施策として固定化されました。
一度確立した制度と組織は、状況が変わってもすぐには廃止されません。役所は予算確保を優先し、関連団体は存在理由を確保しようとします。そのため、出生率が低下しても、政策は慣性のまま進みました。加えて、団塊世代の存在で人口増加が続いていたため、統計的に少子化が明らかになっても「人口減少」が社会にとって重要な危機として受け止められるまでには時間を要しました。当時は「余剰人口」のイメージが現実味を持ち、移住政策を継続させる正当性を支えたのです。
こうした中、政策は軌道修正されることなく20年以上にわたり続けられ、ようやく1980年代に事実上の終息を迎えました。ここには、制度が持つ惰性と官僚機構の自己保存の論理が、国の方向性を大きく左右した実態を見ることができます。
(「論座ー朝日新聞」)
国会は「国権の最高機関」とならず
本来、国会は行政の判断ミスをチェックし、誤った政策を止めたり修正したりする役割を担っています。しかし海外移住振興法を国会で通した後、国会はその政策運用を点検することを殆んど行いませんでした。政府が提出する法案や予算を承認するにとどまり、積極的に問題提起や修正をすることはありませんでした。
帝国憲法下において帝国議会は「協賛機関」と位置づけられ、政策の主導権は内閣と官僚に集中していました。戦後の日本国憲法は議会制民主主義を掲げ、国会を「国権の最高機関」(第41条)としましたが、実際の政策形成過程においては旧来の構図が続きました。移住政策をめぐる国会審議も「どのように移住を支援するか」に集中し、人口動態の変化に基づいて政策そのものを問い直す発想は広がらなかったのです。
その背景には、与党自民党の農林族や野党が「人口過剰」観念を共有していたことがありました。結果として国会は、帝国議会時代と同じく「協賛機関」として機能するにとどまり、行政が描いた路線を追認し続けました。戦後民主主義が掲げた「最高機関」としての役割を十分に果たせませんでした。この点に、戦後政治の構造的な弱点が表れているといえるでしょう。
(「You Tube」)
制度的限界と国会の空洞化
「国権の最高機関」(41条)の規定は、国会中心主義の状況を生み出し、真の民主主義国として自立するための規定でした。しかし、移住政策をめぐる国会対応は、戦前と同様に「協賛機関」の役割にとどまっていたことを示しました。政策の是非を根本から問うことなく、行政の方針に協力・追認する姿勢が続いたのです。
こうした傾向を強めた一因が会期制です。戦前は会期は3か月でした。ということは、1年の3/4が休みだったということです。戦後はそれが150日(約5カ月)になりましたが、実質的に国会は「半分以上が休会」の状態でした。実は、このように議会に会期制を導入している国は、G7の中で日本だけです。他国は通年制といって、1年間開店状態になっています。いつ国政上、重要な問題が起きるか分かりません。そういった状況に対応するために、通年制が採用されているのです。ところが、日本の国会は国政の重要課題に即応できない制度設計になっています。そのため、省庁は国会閉会中に政策を立案し、大臣の承認さえ得れば実行に移すという手法をとりやすくなりました。
実際に、戦後の主要政策――今回、話題にした移民政策は外務省と農林省、戦後の人口抑制策の「二人っ子政策」は厚生省(現厚労省)、ゆとり教育は文科省、バブル対応は大蔵省、市町村合併は自治省・総務省――といったように大きな施策はいずれも官庁主導で進められ、国会が本格的に関与した形跡は乏しいのです。戦後政治における「官僚主導」の構造は、国会の会期制と表裏一体の関係にあると言えます。
(「日本経済新聞」)
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