「道徳が「特別の教科」となるという教科化が始まり、教科書も作成され、実際にスタートしたのですが、大きく分けて2つの反応があります」
「賛成と反対ですか?」
「そう言ってしまうと、身も蓋もなくなりますが、もう少し事態は複雑です」
「反対と言っても、もう始まってしまっていますからね。賛成の方は、その中身を問いたいのでしょ」
「私は賛成の立場ですが、今の教科書では、はっきり言ってダメだと思います」
「何がダメなのですか?」
「出発点として、人間の捉え方が間違っています。そのため、道徳的な人間を育成するためのシナリオ、これが学習指導要領で示されていますが、基本的な部分で間違っています」
「どこがどう間違っているのですか?」
「人間をコンピューターのようなものとして捉え、道徳の内容を一つのプログラミングと考えているきらいがあります」
「確かに、道徳の項目を22に分けていますよね」
「分けた上でその項目ごとの単元を設けて、それを理解させようという発想で教科書が作られています」
「そういう発想だと、何がいけないのでしょうか?」
「その考え方の大きな錯覚というか間違いは、人間が感情の動物でもあることを忘れていることなのです」
「論理的に正しいからといって、それを人間はすべて受け入れる訳ではない、ということですね」
「そうです、人間は機械ではないからです。今日のあなたは物分かりが良いですね」
「昔、嫌いな教師に叱られたことを一瞬、思い出しました。私が悪い、それは分かっているのですが、あなたにだけ頭は下げたくないよと思ったことがあります」
「結局そこなのです。道徳的な行為が求められるのは、感情的に高ぶった時なのです。そこをどうコントロールできるかを考えた時、一番良い見本が実践経験なのです」
「実践経験というのは、実体験、具体的に言うと伝記を読むのが、一番の道徳の学びとなるということですね」
「プロスポーツ選手のプレィを実際に見て、素直に感動して、私もああなりたい、それと同じ理屈なのです」
「今の教科書は、例えて言えば、トスバッティング、キャッチボール、バント練習といった部分の寄せ集め的な発想で作られているということですね」
「パート練習を見ても感動はしません。全体の試合、全体の流れから一人ひとりが教訓を学び取り、生きる糧にできる教材、そして授業が求められているのです。ここからが本論です ↓」
間宮林蔵のその後の行動
1811年に、間宮林蔵は報告書をもって、北海道をあとに江戸に来ています。久しぶりの江戸の華やかな賑わい、まるで夢のように思われました。しかしその江戸では、林蔵の名前はすでに知れ渡り、彼が来るのを待ちかねている人々が多くいたのです。あちこちの大名の屋敷でも、彼をまねこうとします。有名座学者たちも彼の語る言葉に、耳を傾けました。林蔵は、“時の人”として、もてはやされるようになったのです。
林蔵は苦心して清書した報告書を幕府へ差し出します。幕府では林蔵をねぎらった上、かねてからの計画通り、それを高橋景保(かげやす)に渡して、正確な地図をつくることを命じました。
高橋景保は、伊能忠敬の先生だった高橋至時(これとき)の子供です。
林蔵は50歳を過ぎた頃、江戸で勘定奉行普請役という役目につきます。 ちょうどその頃、1825年に外国船打ち払い令が出ます。日本の海岸に近づいてきた外国船に対して、一切上陸を許さず、大砲や鉄砲を撃ち続け、みな追いはらってしまえ、という乱暴な命令が出ます。
江戸で人気者となる――間宮林蔵
彼の願いは、幕府に仕える中で出世することでした。林蔵の身分は、農民の子だったのです。自分の出自に対して、コンプレックスを背負っていたのです。 「一度でいいから、人の上にたちたい。大勢の人間から、尊敬の目でみられるようになりたい」と、どれほど彼は思ったことでしょうか。その望みが、今や達せられたといってよいのです。林蔵は得意の絶頂でした。
しかし、そういう気持にとらわれた時が、一番危ない時なのです。「好事魔多し」という諺があるくらいです。無責任な連中にチヤホヤされて、つい調子に乗りすぎるということになりがちてす。林蔵も、そのようなことになってしまいました。林蔵は段々と、ありもしなかったことまで人々の前で、まるで自分の手柄のように、威張るようになったのです。
そうなると最初は本当に彼を尊敬し、その話を熱心にきいていた人々の中にも、だんだん不愉快に感じる者がでてきました。「間宮林蔵という奴は、えらそうな口ばかり、ききおって。誰も行ったことのない土地を、うろついてきたのがそんなにえらいのか」と、林蔵の名声へのねたみも手伝って、彼を悪くいう人も増えたのです。
一方、高橋景保(かげやす)は林蔵がもちかえった樺太の報告をたよりに、地図をつくる仕事に励んでいました。彼は世界で初めて樺太とシベリア大陸との間に海を書き入れ、林蔵の名前をとって、ここを“間宮の瀬戸”と名づけたのです。 間宮林蔵の名前は、こうして高橋景保の手により、永久に記録されることになったのです。
1826年に、シーボルトという長崎のオランダ商館に勤める医者が、江戸へやってきました。江戸時代の日本は鎖国をしていましたが、長崎の港を通じて、わずかにオランダと中国とだけは、貿易上の付き合いを続けており、商館長が4年に1度将軍に挨拶をするしきたりがあったのです。大勢のオランダ人の一行の中に、シーボルトがいたのです。高橋景保とシーボルトの運命の出会いがあったのです。
シーボルトは景保から樺太が島であることを聞かされて驚きます。景保はシーボルトが樺太の東海岸を詳しく調べたロシア人の本をもっていることを知り、こちらも驚きます。景保は東海岸の地図が載っている本が欲しいと申し入れます。シーボルトは、その交換条件として日本地図を要求します。景保は、息を飲みます。日本地図は当時の最重要国家機密なので、渡したことが分かれば死罪となります。
景保は、ためらいます。シーボルトは説得します。死罪を定めている幕府の法がおかしいのだと。日本の正しい姿を本国で知ってもらうために欲しいのだと。譲ったことは口外しないという約束で、景保はシーボルトに日本地図を渡します。
ところが、悪いことはできないものです。シーボルトが母国オランダに帰るために乗船した船が難破してしまいます。海岸に打ち付けられた品々の中に、持ち出し厳禁の日本地図があったのです。これが世に言うシーボルト事件です。シーボルトは国外追放となります。
日本を追われたシーボルトは、故国へ帰りましたが、それでも日本にたいする愛情を失なわなかったそうです。彼は高橋景保に約束したとおり、『日本』という長い本を著わし、世界の人々に、日本の本当の姿を知ってもらおうとしたのです。
その中で、間宮林蔵の樺太探検のことを書きました。そして、『日本』のなかで間宮海峡の発見をくわしく紹介し、その偉業をほめたたえたのです。 世界中の地理学者や探検家が、それを読んで林蔵の活躍に驚いたのです。中でも、ロシアのクルーゼンシュテルンは、「私は日本人に負けてしまった!」と、叫んだということです。
道徳の教科書に「偉人伝」を入れるのは自然の姿
いかがでしたでしょうか。道徳の授業というのは、先人の山あり、谷ありの人生を見てもらって、共感できる点を今後の生き方の参考にしてもらうということだと思います。
林蔵はその後、伊能忠敬と出会います。彼は林蔵の功績を心からねぎらい、同時にそれだけで満足してしまわずに、さらに勉強して今後もっと大きい仕事をするように、と励ましてくれたのです。彼は林蔵を、“日本にまれな大剛の者”と呼んでいたのです。そして、むずかしい測量法まで、林蔵に教えました。林蔵は忠敬をずっと尊敬していて、忠敬の言葉に耳を傾け、いっそう張り切って今度は蝦夷の奥地のまだ測量されていない土地を調べに出掛けます。樺太やシベリアのように、暮らしぶりの全く違う原住民たちのなかで、とまどう心配はありません。しかし海があらく、陸地には原始林と沼地がひろがり、道らしい道もなく、寒さの厳しいことでは、樺太とそれほどちがいませんでした。樺太探検できたえた腕をふるい、伊能忠敬から新しく教えられた測量術をつかって、林蔵は調査を行ったのです。彼の生涯は、まさに探検調査に明け暮れた生涯だったのです。それを天職と考え、それが社会のために役に立つことと考え、懸命にそれをやり通そうとしたのです。
懸命に生きた人の生き様は、感情や気持ちの起伏があるし、躍動感があるので、子供たちにとって良い手本になるのです。スポーツで言えば、プロの試合がそこに展開しているようなものです。作り話は完璧さが滲み出ているし、何を獲得目標としているのか分かってしまいます。児童、生徒たちの心の琴線を揺さぶる力が弱いため、お手本にならないのです。
道徳の教材は、ナチュラルなものが求められます。そういう点では、伝記が最適なのです。
そして、道徳の教科書くらいは、地方の教育委員会に編纂を任せれば良いと思います。郷土の英雄は一人、二人位いるでしょう。学力テストとも関係がない教科です。全国一律の教科書を作る必要はありません。今よりも血の通った教科書が作られる可能性が高いと思っています。
読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、「ブログ村」のクリックをお願いします ↓