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あの人が生きたように /  江戸時代の探検家 間宮林蔵

  • 2020年9月9日
  • 2020年9月9日
  • 教育論
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「間宮海峡って、知っていますか?」

女性

「どこかで聞いた覚えがあります。確か、北の方ですよね」

「樺太(サハリン島) とユーラシア大陸との間にある海峡です。長さは約660km、最狭部の幅は約7.3kmで、冬の間は凍結のため徒歩で横断することができるそうです」

女性

「そこを探検したのが間宮さんなのですね」

「今で言うところの探検家、冒険家と言うことになると思います」

女性

「探検しようと思って行ったのですか?」

「いえ、幕命で行っています。ただ、今から約200年前のことです。まさに未開の地、何がどうなっているか全く分かっていません。彼は自分の墓を建ててから出かけたと言われています」

女性

「まさに、決死の覚悟だったのですね。幕府はどうしてそういう危険な所に行かせたのですか?」

「一言で言えば、北方防衛のためです。ロシアの脅威を感じていた幕府は、樺太がどのような状態なのか、そもそも大陸と繋がっているかどうかを確かめるために、2回にわたって派遣されます」

女性

「えっ、2回も行ったのですか?」

「そうなんですよ。1回目は1808年に、上司の松田伝十郎とともに樺太探検をしていますが、伝十郎はいやいや行ったのですが、林蔵は使命感に燃えて行きます。樺太は現地人の証言があり、島らしいということが分かるのですが、それ以上の探検ができず帰ってきます」

女性

「ただ、それで一応目的を達したので、もう終わりでしょ」

「林蔵はこの目で確かめた訳ではないので納得できず、自分の方から再度探検したいと申し入れをします」

女性

「なんか、凄い人ですね」

「そこらへんの精神力は凄いと思いますし、それが2回目の大冒険旅行を成し遂げることになります」

女性

「ここからが本論です ↓」

 間宮海峡――日本人の名前が唯一世界地図に刻まれている

世界には、発見した人の名前が入った海峡がいくつかあります。マゼラン海峡、クック海峡、ベーリング海峡、そして間宮海峡です日本人の名前が世界地図に刻まれているのは、間宮海峡しかありません。このような偉業に対して、戦前は「修身」の教科書に掲載されていたのですが、現在の道徳教科書には載っていません。高校日本史の教科書(山川出版社)にわずかに「1808年には間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させた」と書かれているだけです。

なお、間宮海峡そのものの名称や位置については、中学や高校の地理でも現在は教えていません

1993年の6月3日の測量の日にちなんで、つくばみらい市に間宮林蔵記念館が開設されました。近くに間宮林蔵の墓もあります。

 

 対ロシア防衛のために樺太探検が提起される

1792年にラクスマンが根室に現れます。1804年には、レザノフが長崎に現れます。日本との通商を求めたのですが、当時の幕府の鎖国政策のため、色よい返事はありませんでした。業を煮やしたロシアは1807年4月、突然エトロフ島の北海岸に姿を現し、ナイホというところにある日本陣地を攻撃し、日本人の番兵を捕虜にするという事件を起こします。この事件についての報が江戸幕府に届きます。

幕府は蝦夷地(北海道)防衛の決意を固めるのですが、蝦夷地の地理がよく分かっていないことに気付きます。蝦夷の本島と、エトロフ島、クナシリ島の両島については、伊能忠敬の調べにより、およそのことがわかりました。しかし、樺太のことは何も分かっていないことに気付きます。樺太の南半分は、40年以上にわたって日本の領土だった地域です。

「樺太こそ、ロシアとの国ざかいでござろう。いまのうちに藩兵をおくらぬと、とんでもないことになりましょう」「それにしても、樺太は清国と地つづきであるのか、それとも海のうえの島であるのか、それに応じて陣地のつくり方も違ってまいります」。そんなやりとりがあって、幕府からの樺太探検の指令が函館奉行所に出されます。奉行所の方で、人選が行われた結果、松田伝十郎と間宮林蔵が選ばれて樺太に派遣されることになります。仕事の内容は、樺太の東海岸と西海岸の地理と、そこにおける住民の暮らしぶりを報告せよというものでした。そして1808年、2人の乗った船が宗谷から樺太に向けて出発したのでした。その時、伝十郎は40歳、林蔵は34歳でした。

 

 第一回 樺太探検旅行の顛末

樺太に着いてから、伝十郎の提案で彼は西海岸を、林蔵は東海岸を探検することになりました。伝十郎はこの探検が嫌でたまらなかったので、手分けした方が早いという考えだったようです。お互い現地で雇ったアイヌ人を道案内人にして、海岸伝いに小船で進みます。

東海岸を北上していた林蔵は、北知床岬まで行って西海岸の伝十郎と合流します付近に住んでいた原住民にこのまま進むと、どうなるのかを聞いてみました。すると、小船で6日くらい行くと島の東にくるっと回ることが出来るという話を得ます。その話を聞いた伝十郎は、途端に帰ろうと言い出します。直接見て確かめていないので駄目と林蔵が主張します。林蔵は一人でも行く覚悟で実際に出発するのですが、そこから先の海岸は腐った海藻が浜辺に山のようになって行く手を遮り歩くことができません。小舟で進もうにも、引き潮になっていて小舟を浮かべることすらもできません。休むための木陰すらないところで長時間待つことはできない。そのような判断から、第一回目の探検は、そこから引き返すことになります

伝十郎と林蔵は、探検で調べたことを、奉行所へ届けました。よくやったということで、奉行所の上役は、二人をねぎらってくれたのです。伝十郎は大変満足でしたのですが、林蔵は心に引っかかるものを感じていました。そして、その1か月後に自分からもう一度樺太行きを志願したのです。驚いたのは、奉行所の役人たちでした。

 

 第二回 樺太探検旅行の顛末

そんなことで林蔵の第二回目の樺太探検が実現します。アイヌ人を現地で雇って舟旅を続けます。途中、サンタン人(原住民)に襲われたりしながら、苦難の旅が続きます。足止めをくって原住民の部落に長期滞在したこともあります。

今回の探検に出発したのが7月でしたが、「間宮海峡」に近いノテト岬についたのが翌年の5月でしたノテト岬から水先案内人を加えて8人の一行は舟で樺太とシベリアの間を通り抜けます。将来、その海峡に自分の名前が付くとは夢にも思わなかったでしょう。そしてナニオーという地に着きます。そこから右手に樺太、左にシベリアの台地が見渡せます。林蔵はそこで、樺太が島であることを確信します

実は、探検にはもう一つの目的がありました。それは、ロシアとの国境を知ることだったのです。そのことを原住民に聞きます。すると、ここにはなく、大陸の方だという答え。冒険心旺盛な林蔵は、大陸に渡る決意を固めます。危険極まりない探検であることは十分承知しているので、今までのことを書いた報告書を日本に届けるよう、アイヌ人に頼みます。その上で、従者を連れてシベリアの奥地に向かって進みます。アムール川の河口の村の様子を林蔵が書き遺しています

 

ここは、もうマンコー河(アムール河)のすぐ河岸であった。この辺りの原住民の顔形は、樺太奥地のギリャーク人と変わらない。しかし言葉は大変に違い、聞いていても何をいっているのか、よくわからない。使っている道具も、満州地方のもので陶器が多く、着物は、たいてい木綿をきている。そのため、男も女も、形よく上品にみえる
家はおよそ二十軒ほどあり、ハラタ(族長)と力ーシンタ(村長)と、満州語の話せる二人の通訳がいて、彼らがほかの者を支配しているらしい。
満州方面(中国東北部)からも、原住民たちが商いにきていて、そのためあちこちで宴会がひらかれ、太鼓の音がひびいて、あのひっそりした樺太の村々とは、大違いだった

マンコー河(アムール河)の様子について――水はにごり、ゆっくりした流れだが、たとえようもない大河ゆえ、風波のたつときは、貧弱な原住民の舟など、とても進むことができない。
政府などもたない野蛮人のことだから、だれ一人、堤防をきずくものもなく、そのながめは茫洋としてはてしない。河の中に、たくさんの島や洲がある。

その後、清国の役所がある地まで言っています。中国人の様子を書いています

 

大体、彼らは中国以外の国はどこもかしこも、ことごとく無政府の野蛮人である、と考えているらしい。
私が文章をかくのをみて、おおいに驚き、お前は中国人であろうなどと言った
あるいは、“ロシアは中国の属国である”ともいい、また“日本は、中国に貢ぎ物をもってきたことがあるか”などと質問した。彼らの態度の傲慢であることは、お話にならなかった
そういうありさまだから、この土地の人々にたいしては、まるでもののかずとも思わぬ、尊大な態度でのぞんでいた

 

物々交換が行われる市場があったようですその市場は柵で囲み、それを役人が仕切っていたようですが、その模様を書いています――その交換のさいの乱雑で無規律なありさまは、お話にならない。何しろ、至る所から集まった数百人の原住民が、毎日この柵の中におしかけてきて、ここで物々交換をするのだから、その騒がしいことは、たとえようがない。品物のことで大喧嘩をはじめ、互いになぐりあっている者があれば、かってに走って転んでいる者もある。
着物をかかえてかえる者もあれば、一度交換してしまった木綿を、もう一度酒に換えてくれ、せがみたてている者もある。
ワイワイガヤガヤと喧(やかま)しくて、同士ようもない。彼らをしずかにさせるため、役人が撞木(しゅもく)をたたいて合図をするが、いっこうにききめがない。
そういう騒ぎのなかで役所の物がぬすまれたというと、ドラが激しく打ちならされる。すると原住民たちは、われさきにと、今度は柵をのぼってにげだそうとし、その騒ぎといったら、ちょっと表わしようがない。

当時の中国人たちの様子が生き生きと描かれています

間宮林蔵の生涯について、筑波常治著『間宮林蔵』(国土社.1969年)を参考にして、探検旅行を中心にまとめさせて頂きました。

この話が、どうして間宮海峡というネーミングになったのか、そしてこの話をどのような観点から捉えれば良いのかということについて、明日続きを書いてみたいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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