「8月15日、今日は終戦記念日ですね」
「今年は、台風直撃の日となってしまいました」
「戦没者追悼式を執り止めた県もあるみたいですね」
「戦後78年、遺族も高齢化が進み、戦争を直接体験した人の数も少なくなってきました。そういうこともあって、なぜ日本が戦争に突入していったのか、歴史的に調べようという動きが出てきたと思っています」
「体験した人の数が減ると、その歴史を調べようとする動きが出て来るのですか?」
「当事者が多く存在している場合は、それは歴史で扱う問題ではなく、政治の問題みたいな感覚があるのです」
「一種の縄張り意識ですか?」
「そうではなくて、史実として完全に落ち着いていないという考えだと思います。歴史小説家の司馬遼太郎氏も亡くなってから50年位経たないと、その人のことを書けないと言っています。同じ感覚だと思います」
「そう言われれば遺骨収集は全く進んでいないそうですね」
「そうですよ。戦艦と共に海底に置き去りにされている遺骨も多くあるとのことです。私の伯父はノモンハンで戦死していますが、死亡通知書が来ただけで遺骨や遺品が全くありません」
「そういう意味で戦争はまだ完全には終わっていないということですね」
「防衛省の「防衛研究所」には、現在でも年間500点位の史料の寄贈があるとのことです」
「そうなんですか! どういうものが史料として寄せられるのですか?」
「公文書、陣中日誌、アルバム、回想記録、メモも書いた人物や内容によっては重要な史料となります」
「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「朝日新聞デジタル」提供です」
すべての元凶であるかのような攻撃——帝国憲法
帝国憲法がすべての元凶であるかのような攻撃を受けています。1.プロシア憲法模倣説。2.天皇主権。3.神権主義。主に、この3つです。1から順番に見ていきます。
プロシア憲法、つまりドイツの憲法を模倣したというものです。開国をして近代議会をもつ必要性が出て来ました。ただ、民選議会の経験は日本にはありません。議会政治の先進国であるイギリス、そしてドイツに留学をしてその成果を日本の憲法に採り入れようとしたのは事実です。
ただ、その一方で日本の統治の歴史について、古典を学ぶなどしてその歴史も辿ったのです。憲法起草者は伊藤博文をチーフにして、残りは井上毅(こわし)、金子堅太郎、伊藤巳代治の4人ですが、4人の共通ワードが「シラス」だったのです。
(「www.amaazon.co.jp」)
「シラス」について書いている教科書は自由社1社のみ
「シラス」について書いている教科書は自由社の『新しい歴史教科書』だけです。ただ、これは中学の歴史教科書です。高校の歴史教科書で、「シラス」という言葉を使って説明しているものはありません。
この「知らす(シラス)」の意味ですが、日本各地の豪族たちが権力争いや領地争いをした結果を全国的に知らせるというところから来ています。天皇は権力争いには加わりません。あくまでも一歩離れたところから有力者の権力トーナメントを見ているという立場です。そして、権力を奪取した者に、例えば太政大臣や摂政、関白といった位を与えて、そのことを他の人たちに知らせる主宰者の役割を担う様になったのです。このシラスの考えを起草者たちは帝国憲法に採り入れようとします。
金子堅太郎は「帝国憲法の精神」の中で「外国の憲法と日本の憲法とを併せて同一の理論を以て解釈することは抑々(よくよく)誤って居ると私は確信する」と述べています。伊藤は「帝国憲法義解」(1889)の中で憲法1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の統治の意味は、シラスであると言っています。
(「www.amaazon.co.jp」)
「統治」の意味を明治の憲法学者たちが曲解
1886年に2つの憲法草案が提出されます。いずれの草案も「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」であったが、最終的には「統治ス」となった。伊藤も井上も、その「統治ス」はシラスという説明を行っていたが、ドイツ人の法律顧問であるロエステル、モッセの理解を得られなかったようです。
つまり、シラスというのは、異国人からすれば、聞いたことのない法概念だったので賛同を得ることは出来なかったようです。「統治」とし、意味を起草者が説明すれば良いのではという話で決着したようです。そして、明治の憲法学者たちが、統治を強権的な意味として解釈するのです。
(「木崎洋技術士事務所」)
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