
「今年は、原爆投下から80年、終戦から80年の節目なんですね」

「80年経っていますが、何の総括もなされていません。今年は80年談話さえ出ませんでした」

「総括というのは、反省ということですか?」

「歴史というのは俯瞰することによって分かることが多くあります。ちょうど、夢から醒めた時、その夢全体を見て、おかしなことがあることに気付きます。同じ理屈です」

「振り返ることによって、様々なことが分かるのですね。振り返ると言いますが、どの辺りまで遡れば良いのですか?」

「あなたは、どう思いますか?」

「戦後からの80年を振り返れば良いのではないかと思います」

「それだと多分、きちんと総括されないと思います。160年前に遡る必要があると思います」

「明治維新の頃まで戻るということですね」

「明治維新という言い方、そのものが藩閥勢力のプロパガンダなので余り使いたくないのですが、その頃まで遡る必要があります」

「今日は、「国体」護持の問題について語りたいと思います。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「note」提供です」
8月15日がもたらす一過性の議論
終戦の8月15日が近づくと、「大東亜戦争」や「国体」という言葉がメディアや論考に登場するようになります。しかし日本人は、こうした歴史的な賛否が分かれるテーマにいて、その時だけは話題にして、議論を突き詰めることなく先送りする傾向があります。これは民族のDNAのなせる業だとは思っていますが、気がつけば、敗戦から80年近く経った今でも、本質的な総括がなされていない状況が続いています。
8月7日付の『産経新聞』「正論」欄に八木秀次氏が「戦後、『国体』は護持されたのか」と題した論考が掲載されました。八木氏は、ポツダム宣言を受諾する唯一の条件が「国体護持」だったため、そこに注目し、それを検証しようと考えたのですが、戦後から検証しています。それでは正しく総括できません。議論が堂々巡りとなります。
国体護持でいう「国体」とは、国家体制の意味ですが、それが護持されたかどうかという問題は、より長期的な歴史の流れの中で考察すべき概念です。皇統そのものは、少なくとも2千年近く続いており、その時々の為政者たちは、朝廷と協力をして日本の国を統治してきました。それを「国体」と呼ぶのならば、かつての時代の「国体」のかたちを知り、それが明治になってどのように受け継がれ、敗戦によってどうなったのかという流れの中で総括する必要があります。
(「NHK」)
「権威と権力の二本足」こそが日本の国体
日本は「シラス(治ラス)-ウシハク(領ク)」の国です。シラス者の天皇は日本全体を精神的・象徴的に治め、時々の権力トーナメントを勝ち上がった実力者がウシハク者として現実の政治・軍事を担ってきました。具体的には、平清盛、豊臣秀吉、徳川家康といった人たちを太政大臣として任命して、彼らと共に日本を統治してきたのです。
一方、欧米諸国は国王に権力を集めて、その力で国内を統治し、対外戦争を準備するという「権力1本足打法」を採用してきました。これに対して日本は、「権威と権力の2本足打法」によって国家を安定的に統治してきました。これが「国体」の正体となります。この国体が形成されたのは天武天皇の頃ですので、7世紀の終わりから8世紀にかけてです。
「権威と権力の2本足打法」を法制度に落とし込んだものが「神祇官-太政官」の二官八省の律令体制です。律令体制そのものは明治の初めまで存続します。だから約千百年間、組織としての命脈を保った格好になっています。「シラス(治ラス)-ウシハク(領ク)」が明治時代にどのように処理をされ、それが敗戦を経てどうなったのかを検証すれば、国体の護持問題は決着します。今まで、決着しなかったのは、律令の時代に遡らずに戦後の80年という短いスパンで議論していたからです。これでは、夢の中にいて何かを言っているようなものです。
(「自由時間―至福のひととき-エキサイト」)
明治政府による国体の転換
「シラス-ウシハク」体制を崩したのは明治政府です。薩長土肥を中心とした藩閥勢力は、戊辰戦争を有利に戦うために「五箇条の御誓文」を発表します。明治天皇はまだ15歳でした。その1か月後に江戸城無血開城が実現し、政権が転がり込んできました。藩閥勢力の連中は、朝廷の権威の大きさに内心驚きます。それは、言って見れば、律令の千百年間の重みでもあったのです。本来なら、その制度を引き継ぐことを考えなければいけないのですが、藩閥勢力は天皇の権威だけを政治的に利用する姿勢をとります。
薩長土肥出身の下級武士の連中の間で権力闘争が起きます。「明治6年の政変」「明治14年の政変」と言われているものです。西郷隆盛、江藤新平、大隈重信といった良心的な人間が政府の中枢から排除されます。大久保利通、岩倉具視、井上馨、山縣有朋といった薩長の連中が独裁体制を固めます。彼らは天皇を前面に建てながら、軍事官僚や内務官僚が権限を自由に行使できる体制をつくります。敢えて言えば「シラス一本足打法」でした。天皇が統治者であるかのような体裁を整えた憲法を制定しつつ、その陰で自分たちが自由に権力を行使できる体制を作ったのです。
つまり、この時点で本来の「国体」はすでに変質していたと見るべきです。敗戦の結果、天皇はシンボル(象徴)になってしまいましたが、天皇の本来の役割は、政治的な重要問題や課題に対して、大所高所から意見を述べる立場であったはずです。国体とは、「シラス-ウシハク」のバランスの上に成り立つ国家構造であり、それが明治以降の近代国家体制の中で形骸化したまま今日に至っているのが現実です。国体は、この160年間の中で変形してしまったというのが結論です。
(「まなれきドットコム」)
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