「敗戦後、アメリカをはじめとする連合国との講和条約が結ばれた(1951年)後も、日本は他の国から警戒の目で見られていたのですね」
「今でも、その目で日本を見ている国があるじゃあないですか(笑)」
「私は直接には知らないのですが、それだけ日米戦争が激烈だったということでしょうか?」
「日独伊の三国の中で、一番最後まで頑迷に抵抗したのが日本ですからね」
「アメリカからすれば、相当な恨み辛みはあるでしょうね」
「アメリカ占領軍は、日本を滅ぼすつもりで乗り込んできたと思います。そのためのプログラム計画を策定して、それに合わせて占領政策を実施します」
「ところが、予定が狂うのですよね」
「大陸と半島での動きが、アメリカのスケジュールの変更を余儀なくさせます」
「スケジュールの変更があっても人口政策を変えなかったのでしょうか?」
「変えていません。彼らは表面上は友好関係を演出しますが、長い時間をかけて日本弱体化を狙っていますので、「人口減政策」を変えることはありませんでした」
「今は、どうですか?」
「今は、安倍外交の成果で日本とアメリカの信頼関係はかなりタイトな関係になっていますので、日本が弱体化すると困ると思っているでしょう」
「菅新総理が誕生して、さっそくアメリカから会談のオファーが来ましたね」
「大統領選挙があるので、トランプさんは忙しいと思いますが、ポンペオ国務長官との会談がセットされるようですね」
「ここからが本論です ↓」
目次
1950(昭和25)年の国会における吉田茂首相と()加藤シズエ議員のやりとり
(吉田茂首相/当時)
産業振興や貿易の発展拡大によって経済を活性化させ、その力で人口問題の解決を図ろうと考えた吉田首相と産児制限による人口抑制で人口問題の解決を訴える加藤議員の意見が衝突します。そして、結局、吉田首相はGHQからのプレッシャーもあり、講和会議前でまだまだ各国は日本を警戒しているという状況下の中で産児制限を受け入れていくことになります。
「しかし吉田や加藤は、産児制限によって人為的に人口抑制に介入することが、いつの日か行き過ぎた出生抑制につながり、人口減少を生じさせ、やがて誰もそれをコントロールできなくなることを、どこまで理解していただろうか」(河合雅司『日本の少子化 百年の迷走』新潮選書.2015年)と河合氏は問うています。
家族計画という名の産児制限が行われるようになる
1954年という年は、日本の政府が人口抑制のための産児制限に踏み切った年でした。そのことを読売新聞夕刊が「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の見地に立ってさらに強力に普及推進したい」と当時の草葉厚相が全国都道府県衛生部長会議で発言したことを報じています。
産児制限では具合が悪いので、家族計画という言葉を意識的に使うようになります――「家族計画とは、このような自主的計画的な家族設計のことをいうのである。したがってそれは単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」(『昭和33年版 厚生白書』)。
そして、その考えを普及させるために、農村部に入っての「計画出産モデル村」や企業に保健婦などを派遣しての「家族計画運動」などが行われた。参加企業数、55企業・団体124万人という記録があるので、かなり広範囲かつ手取り足取りの指導が行われたようです。
1955年には国際家族計画会議が東京で開催されます。「この国際会議は日本の家族計画運動に火をつけるには十分であった。翌1956(昭和31)年には家族計画の啓発のため、厚生省と日本家族計画連盟が共催して第一回家族計画全国大会が東京で開催された。政府と民間関連団体の協力態勢は今日まで引き継がれている」 (河合雅司 前掲書)とのことです。
家族計画啓蒙運動は、日本的子育ての破壊活動であった
出産と育児という営為は極めて大変なことです。「産みの苦しみ」、「安産祈願」という言葉が遺っているということは、出産自体が苦しく、なおかつ生命にとって危険なこともあるということです。だから、病院でお産をするということなのだと思います。
苦しい思いをして何故子供を産まなければいけないのか。ただ、少なくとも第一子の時は、お産が苦しいということを実感として分かっている訳ではありません。愛する人の分身を世に送り出してあげたいという気持ちもあるでしょうし、2人の絆であり結婚の証として子供を産みたいというのは自然の感情だと思います。
問題なのは、そこから一歩踏み出して、「私」を超えた「公」のためという思いで出産を考えてくれる人たちが、どのくらい多くいるかが重要です。すべてのカップルが1人ないしは2人の子供で止めてしまえば、その国はやがて人口減で滅びます。戦前までは、そうならないような啓蒙教育が各家庭や地域、学校で自然に行われていたのです。子宝という言葉もありました。今は、そういう言葉すら聞かなくなってしまいました。兄弟がいて当たり前、一人っ子は珍しかった時は、兄弟がいないという理由でいじめを受けていた子供もいます。今は逆に3人の子供がいる家庭が珍しくなってしまいました。
戦後になって、「パンドラの箱」を開けてしまったのです。つらくて苦しい出産はしなくても良いと、国が率先して啓蒙活動をしたのです。最初は女性の中に戸惑いもあったでしょう。政府関係機関や国が先頭を切って言ったので、女性は甘露の慈雨が降ってきたと思い、飛びついたのでしょう。
日本の家族制度の特徴は「家制度」です。女性は男性個人に嫁ぐのではなく、「イエ」の一員になるために結婚します。「嫁」という漢字を見れば、日本の古来の結婚観が分かります。だから、子供は夫婦2人の子供であると同時に、その「家」の子供なのです。従って、出産はその「家」を存続させるために必要なこと。多ければ多いほどその「家」が存続する可能性が高くなりますので、喜ばしいことだったのです。
家族計画無用論が出た後、ベビーブーム到来で再び家族計画という名の出産制限論を出す
1960年に池田内閣による「所得倍増計画」が出ます。都市化が進み、農村は過疎化が進みます。産業界は若年労働者を欲するようになります。中学を卒業して都会に集団就職をするために上京をする子供たちを「金のたまご」と呼んだりするようになりました。家族計画無用論が出るのですが、それとは真逆の動きが起こります。
戦後すぐのベビーブーム期の団塊の世代が結婚適齢期を迎え、彼らのジュニアが多く誕生する第二次ベビーブームが起こります。この時に「オウンゴール」(河合雅司)が発生します。1974年のことですです。第一回の人口会議がその年に東京で開かれますが、そこで子供は2人までということを大会宣言の中で謳ってしまいます。つまり、「政府は自ら少子化を目指して大号令をかける『自爆』を起こしたのである」(河合雅司 前掲書)
日本の政府には、日本の社会あるいは世界の流れを俯瞰して捉える人物、例えば台湾の李登輝のような人物が昭和と平成の時代に政治の指導的立場に就くことがありませんでした。これが、日本における不幸の最大の原因なのかもしれません。
そのため、明治の後半以降、太平洋戦争が終わるまで、常に重心が高く、その時々の「風」の流れる方向に従って政策も右往左往します。
人口政策は、まさにその典型です。その流れを見てきたのですが、戦前から戦後の1970年代にかけては基本的に人口抑止政策を続けます。その間に「オウンゴール」もありました。
少子化対策ということで方向転換をしたのは、実は近年になってからです。今まで向いていた逆の方向にベクトルを向けて進むというのは、大変なことです。
ところで、この難問である少子化について、河合雅司氏は何と言っておられるか――「まず着手すべきは70年近く前にGHQが仕掛けた「人口戦」の呪縛から抜け出すべく価値観を改めることだ。家族を築く楽しさ、子孫をつないでいく素晴らしさを今一度、認識することからやり直すことである」としています。全く同感です。奇策はないと思います。一つの大きな流れを作るために、人口戦略をきちんと立てることだと思います。その際にキーとなるのが、教育のシステムの在り方と教育内容、さらには出産育児に対する啓蒙活動、それに合わせて地域活性化を図る必要があります。学校統廃合や市町村合併は、地域破壊の原因となるのでやめることです。
4回にわたって少子化問題について書いてきましたが、文中でも紹介していますが、河合雅司氏の『日本の少子化 百年の迷走――人口をめぐる静かなる戦争』(新潮選書)に書かれた内容の多くを参考にさせていただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
読んでいただき、ありがとうございました。
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