「佐藤優氏の『外務省に告ぐ』(新潮社、2011年)の中に、外務省の語学力が落ちている話が出てきます」
「何でそれが分かったのですか?」
「プーチン大統領、小泉首相の会談の実際のやりとりを、どのように同時通訳したのかを分析したのです」
「小泉首相ですか? 随分古い話ですね」
「すいません、この本は今から9年前に出版されたものですから」
「その時は、たまたま同時通訳者が良くなかったということではないのですか?」
「いえ、そういう認識で取り上げられていません」
「その時から、現在に至るまで悪くなっているということですか?」
「現在については分かりませんが、佐藤氏が外務省にいる間は、レベルがどんどん下がっていったという話ですね」
「その原因について、どのように言っているのですか?」
「明確に指摘している部分はないのですが、要するに外交官としての自覚をもって、そのもっている能力を発揮していないという捉え方だと思います」
「至るところにメッセージが込められているとおっしゃっていましたよね」
「そうですね、例えば、最後のページでは、「勇気を出して、日常業務を遂行する中で外務省を内側から変える努力をして欲しい」「他人の気持ちになって考える優しさを備えた青年が外務省に採用され、縦横無人の活躍を」と、言葉をかけています」
「いろいろな国があって大変ですが、是非日本のために奮闘して欲しいと思っています。ここからが本論です ↓」
エリート官僚の力が落ちている―― 道徳教育の必要性
佐藤優氏の『外務省に告ぐ』(新潮社、2011年)の中に、外務省の語学力が落ちているということをプーチン大統領、小泉首相の会談の実際のやりとりがどのように翻訳されていたのかという実例を挙げて説明しています。
その中で「ロシアの60周年戦勝記念式典に出席して、雨雲を科学技術で追い出しちゃうというような話があったが、その技術は進んでいますか」と小泉首相が言った言葉を「私が、2005年に、対独戦勝60周年に出席したとき、雨を降らせる白い雲を散らすためにロシア側が化学的手段を使ったことを覚えています。あなたのところでは、現在、そのようなテクノロジーが進んでいますか?」(傍点筆者)と訳されています。
一瞬ドキッとするような言葉で翻訳されている箇所も含めて、「全体としてみて、ロシア語がこなれていないのである」(佐藤優 前掲書、184ページ)と評価しつつ、ただ首脳会談の同時通訳者は省内一のロシア語の語学力をもっているはずなので、これでは心配だということです。そして、「外務省において、ロシア語の能力だけが極端に落ちて、他の学力は向上しているということはまず考えられない」ので、他の外国語を含めて「対策をたてなくてはならない」し、「最近の外務官僚の語学力低下は深刻である」と言います。
エリート官僚のバフォーマンス低下の原因は何でしょうか。簡単に言えば、目標を失くし、何のために働いているか分からないということではないでしょうか。それが不明確であれば、自分を高めようとする気持ちは無くなります。「魚は頭から腐る」のですが、反日思想を頭に撒き散らされて腐らされているのではないかと思います。
その克服のため、佐藤氏は、しきりに精神論を説きます――「1に国益、2に国益、3、4がなくて5に国益だ。国家存亡のこのときに、文字通り命がけで取り組んで欲しい」。しかし、そのような精神論は殆ど無意味です。教育論(道徳教育論)の問題ではないかと思います。国益のためにもっている力が十全に発揮できるように、再教育プログラムを考えるということではないでしょうか。
いざという時に行動できる人間を育てるためには
明治天皇御製
しきしまの 大和心の をゝしさは
ことある時ぞ あらはれにける
何かあった時に、日本人の勇気が立ち現れると期待を込めて謳ったものです。ただ、この歌の前提には、教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」があったと思われます。
人間の真価は、危機的状況や緊急事態に直面した時に、どのように行動するかで評価されますが、普段からそのことを教えられていなければ、どのように動いて良いかわかりません。その時に、我が身可愛さで、自分のことだけを考えているようでは高い評価は得られません。それでは、それをどう教えるのかということです。
求めているのは行動なので、手本となるべき行動をとった人の事例を紹介することによって理解をさせるのです。それを例えば、平板な文章にして教えた場合は、知識として頭にインプットされますが、いざ何かあった時の行動力を生む力にはなりません。
『はじめての道徳教科書』(育鵬社、2013年)という本があります。道徳教育をすすめる有識者の会が編集して作成したものですが、現行の道徳の検定教科書とは異なった考え方での編集となっています。つまり、生き方の手本として、偉人の話を中心に教科書を編集しているのです。
現行の道徳の検定教科書は、言葉で人間に道徳的行動を教えようとしています。「いじめる子に対して、そういうことはしてはいけないと注意した」「困った人がいたので、声を掛けた」といった類の平板な作り話を載せています。間違ったことを言っている訳ではありませんが、所詮は作り話です。感動はしません。感動しないということは、記憶に残らない、つまりいざという時に何の行動を促す力にならないということです。
口先だけの道徳話では効果なし―― 伝記に勝る教材なし
野球の守備の心構えを教えるのだと言って、口で何回も「死に物狂いでボールというのは取りに行くのだ」と教えても、そういったシーンを実際に見ていない子供たちは、頭の中で各自勝手にそのプレィをイメージします。頭の中で描いたシーンは、選手の人数分の数があり、どれひとつ一致しないでしょう。
ところが、実際の試合で先輩のある選手が、必死になってボールを追いかけフエンスに激突しそうになりながらも危険を顧みず必死でダイビングキャッチをしたのを見れば、「死に物狂い」の意味を全員が理解すると思います。これが実際のプレィの凄みであり、説得性なのです。その後指導者は、「死に物狂いでボールを」という抽象的な話ではなく、「いいか、お前たちの先輩の○○は……」と、実際にどのような場面で、どういったプレィをしたかを語り継いでいけば良いのです。そこには、その子の野球に賭ける気持ちや真剣さも当然あったし、チームみんなのために、応援をしてくれている人のためという気持ちもあったでしょう。言葉で語りつくせないものを、そのワンプレィで学ぶことができます。
「道徳」は、人間の生き方を学ぶ教科にする必要があります。そのための教科化だったのですが、現在の教科書を使って授業をしても効果は上がらないでしょう。考え方が間違っているからです。
先程の例え話で言うと、口で何回も「死に物狂いでボールを」という話をしているだけなのです。口で何回も「いじめはダメ」と唱えても、効果は上がりませんし、実際の数字を見ればそうなっています。
道徳というのは、その子の行動を良い方向に変えさせる必要があります。頭で分かったからといって、人間は行動を変えるとは限りません。そこが、機械と人間の違いですし、そこを踏まえて指導する必要があるのです。行動を変えたいと思わせるためには、その生き方が美しく、憧れのような気持ちを持たせるようにしなければいけません。
「死に物狂いでボールを」「いじめはダメ」と繰り返しても、聞いている子供の頭に美しい人間の生き方が浮かんでこなければ、無駄な叫びで終わります。怒鳴りまくって人が育つ訳ではありません。そこが教育の難しさです。
しかし、1つの感動的なプレィを見れば、僕もあの先輩みたいにと考え、そのために行動を変えようとします。そちらに心を向けさせることが出来れば授業としては成功です。
そして、そういう方向に仕向けるような教材を用意する必要があります。何といっても、伝記が一番効果があると思います。関係者のご検討をお願いしたいと思っています。
読んでいただき、ありがとうございました。
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