「『僕の見た大日本帝国』(情報センター出版局)という本を古本屋で見つけて読んだのですが、なかなか面白かったです」
「古本屋に行くのが趣味とおっしゃっていましたものね。ブックオフですか?」
「町の古本屋です。ブックオフは古本というより、新古本だと思った方が良いかもしれませんね」
「ところで、どういう内容ですか?」
「戦前の「大日本帝国」の領土であった国に行くという内容です。台湾、韓国、北朝鮮、満州に出かけて、その時の様子を書いています」
「著者がその地に行ったのは、いつ頃のことですか?」
「何年何月ということは明確に書いていませんが、約4年間かけて周ったようです」
「本の出版は何年ですか?」
「出版は2005年です。そこから逆算すると、2000年前後の4年間で周ったと思われます」
「お金と時間がかかっていることが分かります。台湾と朝鮮の国の比較が出ているのですか?」
「比較論は書かれていませんが、何か問題意識があるのですか?」
「前から疑問に思っていたのですが、台湾は親日的ですが、韓国、北朝鮮といった半島の国は反日的ですよね。同じように植民地統治をしたのに、……」
「どうしてこんなに日本に対する反応が違うのかなということですね」
「そうです。その手掛かりのようなことが書いていれば、教えて欲しいなと思ったものですから……」
「その視点から、読み込んでみたいと思います。ここからが本論です ↓ 表紙写真は、現在京都で開催中の「台湾と日本展」のポスターです。」
30歳の若者の純粋な立ち位置
時間とカネをかけて、戦前の大日本帝国が有した領土を訪れるという、誰も考えたこともないようなことして、それを記録として本に遺そうと作者の西牟田靖氏は考えたのです。
壮大な旅立ちのきっかけはたわいもない一つの経験からです。南サハリンの人口500人ほどの寒村ウズモーリエでふと見た海辺にポツンと立つ鳥居。思わぬ所で遭遇したかつての日本の過去の姿。かつての日本であった地をこの目で見てみたいという純粋な思いが沸き起こったと言います。
政治的に特定の立場からのレポートではありません。あくまでも、「過去を知るため」の訪問だと言います――「植民地統治の是非については、これらの広大な地域で行われたことをひとまとめにして一元的な結論を出すことは、僕にはできない」。だからこそ、貴重な証言だと思います。
(「日本の古本屋」)
インフラ整備と産業振興を目指す
中国本土と台湾、かなり近いところに位置していますが、台湾を最初に発見したのはポルトガルです。16世紀のことです。なぜ中国ではなく、ポルトガルなのか。誰でもが抱く疑問かもしれませんが、中国は中華思想の国、台湾は化外の地でほとんど関心がなかったのです。清の時代になり、台湾が省に格上げされて清が領土として認識したのは1885年、つまり日本に割譲される10年前のことだったのです。
そういう状況なので、日本が植民地として統治した頃は、ほとんどゼロからのスタートだったようなものです。台湾人が尊敬している日本人を列挙すると、政治または行政面で言えば、「児玉源太郎」「後藤新平」「新渡戸稲造」そして「明石元二郎」です。台湾の第4代総督・児玉源太郎は、軍部による統制を嫌い官民による産業振興を目指した人です。医師の後藤新平はアヘンと伝染病の根絶を目指し、医大を作り都市開発を進めました。農学博士・新渡戸稲造は、製糖産業での産業振興に目をつけ、台湾を世界有数の生産地としました。
第7代総督・明石元二郎の台湾での人気はずば抜けていました。彼は、台湾電力を設立し「日月潭水力発電事業」などを行い、貨物輸送の増大を見越し鉄道敷設を広げ、そして教育差別をなくすための台湾新教育令など、実に様々な改革をしてきました。その彼の指導のもとダムを築いた八田與一の功績については、台湾の教科書に紹介されているそうです。当時東洋一の大水利事業「嘉南大圳」を完成させ、その偉業を称えダムを臨む丘陵に彼の像が飾られ、毎年現地で慰霊祭が実施されています。
(「産経新聞:産経ニュース」)
我が故郷のように思い統治
台湾が親日的なのは、異国の地を異国と思わず、我が故郷のように思い統治した日本人の姿があったからです。ただ、当時の台湾の人たちにはあまりその思いは届かなかったのかもしれません。皮肉にも敗戦となり日本が台湾から撤退して分かります。「犬が去って豚が来た」と言い始めます。日本人は口うるさかったけれど面倒を見てくれた。豚は働きもせず貪るだけという意味がその言葉に込められています。そんなこともあり、瓦屋根の日本家屋が首都台北駅周辺にも残っていたとのこと。それだけではなく、公的な建物である台湾総督府は外観はそのままに使われ、台北帝国大学病院は台大病院、台北郵便局は台北郵局と用途を継承しているのです。まるで日本の統治の時代を懐かしむように。
副瀬村で神様として祀られているのが日本人警察官森川巡査です。現地では「義愛公」と呼ばれ高さ50cmの木造が廟の中に祀られていたそうです。彼が副瀬村に赴任したのは1897年なので、日本領になってすぐの頃です。インフラは未整備、衛生環境は劣悪という状態。彼は通常勤務のほか、子供に勉強を教えたり、農業指導、衛生指導をしたそうです。そういう中で村人の厚い信頼を得ていきます。その後彼が亡くなって20年位経った頃に伝染病が村で流行ったそうです。その時に村長の枕元に森川巡査が現れ「飲食に注意をし、生水や生ものを口にしないこと」と忠告をしたそうです。
その通りに対策をすると伝染病は広がらず、落ち着きを取り戻したそうです。村人たちは森川巡査に感謝し、彼が制服姿でサーベルを抱えている座像を彫って神社に奉納したそうです(下の写真)。霊験あらたかな神様として、今でも参拝者が絶えず、余りの人気ぶりに貸し出し用の神体を2つ作ったそうです。
(「nippon.com」)
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