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歴史に学ぶとは ―—「俯瞰的」に視る作業によって見えてくることがある / 日本人は「公」をどう捉えたか

  • 2021年5月11日
  • 歴史
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「日本の歴史は、他国と比べて大変長い歴史を有しています」

女性

「要するに、一つの王朝と見た場合ということですよね」

「現在も続いていますからね。このことを国民は自覚して、守る気持ちをもつ必要があると思っています。そして、歴史が長いので、時には俯瞰(ふかん)するという作業が必要だと思います」

女性

「何をどのように俯瞰すれば良いですか?」

「知りたい項目なり、概念があれば、それが日本の歴史の中でどうだったのかを調べるのです。歴史を紐解くというのは、そういうことだと思います」

女性

「いつ、どこで、誰が何をしたのか、という勉強はしてきました」

「高校の日本史教科書を見ると、断片的な知識が多く散らばっているという感じですよね。ただ、それでも一応通史を勉強しているはずなので、後は問題意識と調べ方です」

女性

「具体例をあげて、話をしていただけませんか?」

「例えば、最近の話題の男女平等の問題を歴史的に考えてみましょうか。ただ、その前提として、平等とか自由というのは、西欧人がつくった概念ですが、そういった言葉が生まれるということは、その反対の現実があったということなんです。概念が生み出されたということは、必ずしも良いとは限らないということです」

女性

「逆説的に考えなさいということですね」

「そもそも、聖書には男のあばら骨から女をつくったとあります。狩猟民族の生活をイメージして考えてもらえば分かると思いますが、彼らは基本的に移動生活、狩猟という一つの規準で人間を判断しがち、そうすると運動能力的にどうしても男が勝ります」

女性

「昨日のブログの話題の『古事記』には、イザナギ、イザナミが出てきて、共に力を合わせて国づくりをしますものね」

「あと、土偶は女性をかたどったものばかり出てきます。そういったものを総合すると、男性は男性として尊重され、女性も女性として尊重されていたと思います。それがある意味当たり前だったので、「平等」という言葉をつくる必要がなかったのでしょう」

女性

「邪馬台国のヒミコは女王ですものね」

「この地上世界を照らすのも天照大神です」

女性

「ここからが本論です  ↓」

 

 

 西洋のGod唯一絶対神、日本は自然神のカミ

『聖書』と『古事記』を読むと、宇宙がどのようにできたのかについて、それぞれの考えの違いが分かります『聖書』の世界観は、一人の絶対神がすべてを創造したというものです『古事記』には宇宙が生成して天地が分かれ、そこから最初の天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が生まれたとあります。日本のカミはGodではなく、自然神だというのが、そこから分かります。神の捉え方の違いは、自然や人間、さらには社会の捉え方の違いにも影響を与えます。

自然の中からカミが生まれ、人間も生まれます。カミと人間を連続線の中で考えます。実は、仏教も人間と仏を同一線上で捉えます。これは余談ですが、6世紀に仏教を日本は受容するのですが、その世界観を理解できたからです。閑話休題。ところで、『聖書』では、Godが宇宙も自然も人間もすべてを創造したと言います。当然、Godと人間との間には、「深い溝」があり、乗り越えることは絶対に出来ません。人間は神を崇拝するしかないのです。

(「www.4laws.com」)

  公と私の捉え方は、欧米と日本では違う

公と私の捉え方も、欧米と日本では違います西欧では、対立的に捉えます。日本は延長線上で捉えます。立憲主義とか、共産主義は西欧が生み出した概念ですが、国と国民を対立的に捉えた上で成り立つ概念です。だから、その考え方を日本にそのまま持ち込もうとすると、それに対して違和感をもつ日本人は多いと思います。理屈として説明できなくても、2000有余年この日本という大地で暮らしてきた人々のDNAを多少なりとも受け継いでいるはずだからです。

公を私の延長で捉えますので、公がまずありきと考え、その公の安定が私にとっての安定として考える傾向が強いと思います。かつて封建時代の頃、庶民は「ご公儀」という言い方をよく使ったそうです。実はこれが日本人の生きる上での「位置ベクトル」を形成しているのです。

語源を辿ると、そのことが分かります。つまり「地縁による団体が『ヤケ』(宅・家)であり、その中で大規模なものが『オオヤケ』(大宅)(尾藤正英『日本文化の歴史』)となり、これが後に「公」になったことは想像に難くないでしょう。「オオヤケ」とは地域共同体であり、それが「国家の規模にまで拡大されたことにより、天皇の朝廷が『公(おおやけ)』」とよばれ、さらにそれは古代ばかりではなく、中世以降の国家にも継承される」(尾藤正英  前掲書)こととなります。「公共」という言葉があります。これは、そのことを言い表した言葉である。つまり、地域共同体のために行ったり考えたりすることは、イコール国家のためという、いわば日本独特の官民一体化の観念が醸成されていくことになるのです。


(「夢ナビ」)

 日本では、大きな混乱や革命もなく大きな改革が出来たのは何故か

このような考え方があったので、大化の改新(645年)の際の公地公民制の導入が大した抵抗もなく、受け入れられていったのだと思われます。公地公民というのは、土地と人民を国家が所有する、という意味です。簡単に言えば私有地没収ということです。仮に、現代でそのようなことをしたならば、大混乱と大騒動が起きるでしょう。ただ、当時の人たちの気持ちも同じだと思います。

一番影響を受けたのは地方の豪族たちでしょう。6世紀には豪族たちは、国造(くにのみやつこ)に任じられ私有地と私有民の所有が保障されていたのですが、それが駄目となったからです。中央から国司が派遣され、国造はその支配下に組み込まれることになります。当然不満があったと推察されるのですが、朝廷は官や位を授けてなだめたり、国造の中には国司にワイロを送ったりという細かい動きはあったものの、強い抵抗をこころみた形跡はないと言われています。

明治維新期の廃藩置県(1871年)も大きな改革でした。すべての藩が廃止され、代わりに県が設置され、旧大名の知藩事は罷免されて東京居住となり、中央政府から派遣された府知事が地方行政の任にあたることになった、というものです。公地公民と廃藩置県の間には実に千年以上の時間の流れがあるのですが、その根底には同じ価値観が流れているのです。つまり、公的なものは私的なものよりも価値があり、それをそのまま受け入れるという、謂わば「公共心」というものをそこに見出すことができます。

このような日本において、自由、権利、平等などといった概念が出るはずがなかったのです。なお、「権力分立」「立憲主義」は権力濫用が前提の概念です。権力者が横暴を極めたという歴史も革命もなかったので、そういった言葉も出る必然性がなかったのです。そういった概念は、明治期の開国とともに、日本に入ってくることになります。日本人の中には、西洋文明礼賛主義者がいて、無条件にそちらに飛びついた人たちもいたのです。

 なお、 聖徳太子の「和」の考え方が、時空を飛んで明治、さらには令和の時代に受け継がれていきます。その辺りについては、次回論じたいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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