現行のセンター試験に替わって2020年度、つまり今から約1年後に「大学入学共通テスト」(以下「共通テスト」)が実施される予定である。
50万人の受験生を対象にした記述式問題、導入は見送りになったが、どうしてその様なことを考えるのだろうかと思ってしまった。
現場そのものを知らない恐さであろう。
現場サイドからは、反対論も出ていたようであるが、それを押し切るかたちで動いてしまったようである。
(AbemaTimes)
抽象論ではなく、実例に沿って話をしたいと思う。
「公民」の定期試験で簡単な記述問題を出した。
国から地方公共団体への財政支援として格差是正の性格が強い地方交付税交付金と特定事業に対する援助の性格が強い国庫支出金がある。また、地方債の増発によって借金が増えている地方公共団体もある。( )ことが、地方公共団体の自立にとって必要である。
( )内にあてはまる文章を、「自主財源の割合」、「依存財源の割合」の2つを使って答えなさい、という問題である。
ある生徒が「依存財源の割合よりも自主財源の割合を大きくする」と書いた。〇か×か△か、ということであるが、いかがであろうか。
完全に間違っている訳ではない。
文面をそのまま具体例に当てはめて、すべてを言い尽くすことができれば〇なのだが、自主財源の割合が51%、依存財源の割合が49%ということもある。
その場合は自立した自治体とは言えないので、すべてを言い尽くしていないとなり、△となる。
これには、後日談がある。どうして〇ではないのかと言って抗議をしてきたのである。
丁寧に説明して、納得してもらったが、自己採点では〇ということになりかねない。
そういった心配というか、問題があるということ。
記述式の場合は、個別具体的な解説を聞かないと分からない場合が多いのである。
そして採点側では、これをほぼ一瞬、条件反射的に判断しないといけないという時間との問題がある。
この程度の字数でも、なかなか一瞬で採点とはいかないであろう。問題も複雑で字数も多くなれば、当然時間はかかる。
以上、採点をする側と自己採点の正確さという2つの問題があるが、中止になったのは専ら前者についての事情によるが、問題数と配点によっては後者も大きな問題となる。
あれやこれやで共通の論述問題は、絶対に無理だと思われる。
ところで、このように大学入試を全国一斉規模で行うきっかけは何かと言うと1979年の「国公立大学共通1次学力試験」である。
これは国公立大学入学希望者が、この1次試験を受け、各大学が実施する2次試験との組み合わせによって選抜されるという仕組みであった。
それに代わって1990年から現行のセンター試験が実施されるようになり、これに私立大学が参入するようになる。
そして、全国共通学力テストの導入である。
考えてみれば、本来は逆でなければいけない。
戦後すぐの時代は、各大学は入試まで手が回らないので共通問題、やがて学問分野も細分化し、各大学が受験生に求めるものがそれぞれ違うので、各大学で個別に試験をするという流れが自然であろう。
敢えて全国共通に舵を切ったのは、イデオロギー的統一を狙っているのではないかと思っている。
どういうことか。
例えば、過去のセンター試験(「倫理」2003年追試)の問題を1つだけ紹介する。
問:日本の植民地支配に関する記述として適当でないものを次の①~④のうちから1つ選べ。
①植民地化された地域や軍の占領下で、日本に強制連行され、鉱山や軍需工場を中心に過酷な労働に従事させられた人々がいた
②日本軍が進出した広範な地域で慰安所が設立され、従軍慰安婦として過酷な性労働に従事させられた人々がいた。
③植民地化された朝鮮半島では同化政策がとられ、姓名や地名などの固有名詞を除いて、日本語の使用が強要された。
④侵略戦争や植民地支配による被害について、国家間の賠償協定が結ばれた後も、個人的補償と道義的責任問題は未解決とする声がある。
④は「声がある」となっているので、誤りとはいえないという判断が働くが、それ以外はすべて誤りで正解が3つあるのではと思ってしまう。
解答を見ると、正解は「③」とのこと。①と②の記述は正しいということを受験生は思ってしまう。2003年の出題であるが、この問題は2015年に発行された『センター試験への道 倫理』(山川出版社)に掲載されていて、市販されている。
日本のセンター試験で出すような問題ではないと思うが、共通テストになると、さらにすさまじい偏向問題、イデオロギー問題が国語や社会を中心に出題されるのではないかと心配している。
そうなると、勉強を一生懸命した者ほど、反日的な人間になる可能性が高いということである。
読んでいただいて ありがとうございました。