大学入学共通テストで、入試改革の目玉とされていた国語と数学の記述式問題の導入見送りの報に接した。
(Kei-NET)
12月18日に新聞各社、ほぼ一斉に社説でこのことについて論評している。
・「記述式見送り 入試制度を丁寧に練り直せ」(『読売』)
・「独善の行き着いた果て」(『朝日』)
・「大失態の責任は免れない」(『毎日』)
・「責任ごまかしては0点だ」(『産経』)
・「安易な改革繰り返すな」(『東京』)
各社の社説が主に指摘しているのは、次の三点である――
①入試は本来的に各大学が責任をもって考え、実行すべきこと
② 一つの試験にあれこれ詰め込むことは無理がある
③ 入試改革ありきで先行してしまった。
①について、一番説得性のある文章を載せたのが、実は『日経』だと思っている。
『日経』は社説を載せずに編集委員の横山晋一郎氏の論文(「国の言いなりで人材は育たない」)を掲載した――
「迷走の原因は何か。思いつきのアイデアをぶち上げた政治・首相官邸(ママ)。
無理筋と知りながら従った文部科学官僚。ビジネスチャンスとばかりに飛びついた教育産業。
現場の負担を口実に現状維持に走った高校…。
だが、最も責任を負うべきは、当事者意識もなく国に追随した大学だろう」
高校に対する批判は当たらないと思うが、原因と責任の所在など、短い文章で本質を突いている。
そして、強いメッセージの言葉を大学に対してぶつけている――
「内外で大学間競争は激しさを増す。
競争の核心は教育と研究だ。
……そこでしのぎを削るべきなのに、国の言いなり・横並びでは、まともな戦略を持てるはずもない。
……大学は主体性を取り戻すべきだ」
と、手厳しい。
かつて当ブログ「日本の教育――全国一律という発想をやめる時代」(2019.12.7)の中で「人は機械ではないので、個性もあり適性や能力の違いがある。
全国一律にすべてのことを行おうとすれば、必ず『ひずみ』と『ゆがみ』が生じる」ことを書いた。
人づくりは国と地方と現場との共同作業なので、そのコンビネーションが悪いと、発想・アイディアが良くても成果として結実しないことになる。
(123RF)
教育は国家戦略に関すること、だから政府・文科省が関わるべきこと、という誤った思い込みが力みを生み、現場の状況が分からないまま、地に足がつかない改革プランとなってしまった。
今後も教育改革の中心を文科省が担うのだろうか。
仮にそうならば、文科省自体の組織の有りようを変えて、現場とのパイプをつなげるような措置を図る必要がある。
そもそも、今回の問題で萩生田大臣が矢面に立って陳謝していたが、彼は今年の9月に文科大臣に就任したばかりである。
(Yahoo!ニュース)
何か改革をする場合は、組織と体制をきちんと整える必要がある。
トップがその途中で交代するような組織では、改革などおぼつかない。
組織の改革にまで手が回らないならば、権限を地方の教育委員会に委譲し、その地方の実情に応じた教育営為を創造してもらうことである。
大学入試のあり方もその中で考えてもらえば良いと思う。
そもそも日本の江戸時代、特に末期は各地に藩校、私塾、寺子屋があり、それぞれのカリキュラムのもと地域の教育を担っていた。
吉田松陰の松下村塾が有名であるが、杉家の母屋を改造したわずか10坪程度の学び舎(や)から、明治維新の担い手たちが羽ばたいていった。
当時と今とでは時代が違うと言われそうだが、日本の周りは波高しの激動の時代になりつつある点では共通している。
人づくりには周到な準備と計画が必要である。
単なる思いつきレベルのプランを立ち上げようとしても、計算通りにはいかない。
21世紀の日本の担い手をどう傑出していくか、政府関係者や国会議員の先生方には、国家意識をもって考えて欲しいと思っている。
今日も読んでいただき有難うございました。