「情緒というのは日本人にとって重要なテーマなので、今回も前回に引き続いて話題にしたいと思います」
「ところで、昨日のブログで例としておっしゃっていた救急車の話、覚えていますか?」
「破水したのに、県外の人ということで、陰性の結果が出るまでは診ないと言われた、という件でしょ。あれから、何かありましたか?」
「一応、謝罪したみたいですね。今日のニュースでやっていました」
「それは良かった。悪いということが分かれば、「原点」が正常な位置にもどりますからね」
「昨日は、岡潔氏の情緒の話でしたので、藤原正彦氏の情緒の話を紹介して欲しいと思います」
「基本的に同じですが、改めて紹介します。『国家の品格』の中で「『情緒』と『形』の国、日本」と言っています」
「情緒は変化するもの。形は変化しないものですよね。違う2つのものをどのように考えれば良いのですか?」
「2つをセットにして考える必要があります」
「情緒は日本人独特の感性とおっしゃっています」
「「独特」と言われても日本人には気が付かないし、分かりにくいでしょうね。人は自分のことは、なかなか分からないのです。それで藤原氏は、外国の方の発言をいくつか紹介しています」
「イギリス外交官の奥さんの話がここに書かれています。自然への感受性や美を感じる心という点で日本人に勝る国民はないでしょう、と書いています」
「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲/1850-1904)の、日本人は虫の音を音楽として聴き、そこに「もののあわれ(あはれ)」さえ見いだしている、との言葉を紹介しています」
「虫の鳴き声を楽しむというのは、世界広しと言えども日本だけだそうです」
「他の国はムシしているのですね」
「…(しばしの沈黙)…」
情緒とは、簡単に言えば「空気を読む」こと
「空気を読め」とか「場の雰囲気を考えて」などと言われた経験があるのではないでしょうか。例えば、会議や飲み会や普段の会話では、会話のキャッチボールが行われます。例えば、A→B→Cと話が繋がって、それに対してDという意見なり質問が出ても論理的には全くおかしくないとします。ところが、Dを出した瞬間に、周りはダメ出しをしている、というケースです。このDの意見を発した人物に対する周りの評価が、「空気が読めない人」というものなのです。
これが2,3回続くと、多分「ちょっと変わった人」扱いされるかもしれません。「以心伝心」、「あうんの呼吸」という言葉が日本にはあります。見えないけれど、相手からのメッセージを受け取ることが求められています。受け取ることができない人は、場の雰囲気を壊す人と見做されます。
空気を読む力は、自然との対話の中で培われてきたもの
日本列島はもともと大陸と地続きだったそうです。約1万年前ころに大陸と切り離されたのですが、ほぼ現在の形に近い日本列島が誕生し、自然環境も今と殆ど変わらなかっただろうと言われています。日本の国土の7割がうっそうとした森林が生い茂った山地でした。
自然豊かな山、川、海に囲まれ、そこからは海の幸、山の幸が豊富に採れたのでしょう。その有難さから、先人たちは自然の至る所に神がいると考えるようになったのだと思います。人類の祖先はアフリカが起源だということが分かっています。気の遠くなるような時間をかけて、広大な平原や砂漠の大陸を横断して日本列島に辿り着いたのでしょう。辿り着いた地は、温暖湿潤な気候と海や森が育んだ生命(いのち)が豊富にありました。それは周りの神々が授けてくれると思ったのです。日本は多神教(アニミズム)の国ですが、それは豊かな自然への感謝が生み出したものだったのです。
神へ感謝するためには、感じることが重要です。鳥のさえずりや虫の声、風の音や動物の鳴き声に耳を傾けるようになっていったのでしょう。それが子孫代々受け継がれ、DNAの中に刻み込まれていると思われます。
それに対して、大陸は緑が少なく、過酷な自然環境の中で生きていくためには、天上はるか彼方におられる唯一の神を信じるしかなかったのです。西洋は一神教で信じる神、日本は多神教で感じる神と分かれたのは、その置かれた環境の違いだったのです。 あなたの信じている宗教は何ですか、と聞かれると、多くの日本人はとまどうのではないかと思います。何かを感じた時に手を合わせ、その人を思った時に心の中で語り掛ける、それを無意識に行っているからです。
情緒の力を育むための3つの実践と必要な環境
人間の歴史を振り返ってみた時に、言葉がない時代の方がはるかに長かったことを改めて思い起こして欲しいと思います。もともと人間は他の動物と同じように、単純な鳴き声や手振りといった動作の組み合わせでコミュニケーションを交わしていたのだと思います。そのうち、鳴き声の音調と鳴いていない時間、そして動作の組み合わせになっていったのでしょう。鳴いていない時間、身体の動きを止める時間が「間(ま)」となり、これが相手の複雑な気持ちを読み取るカギとなっていったのでしょう。
空気を読む情緒力をもともと持っているのですが、それを意識して育む必要があると言います。その力を国民が高めることによって、戦後になって「格段に失墜した『国家の品格』」(158ページ)を取り戻すことができると藤原氏は考えたようです。いろいろ書かれていますが、3つにまとめたいと思います。
1つは、旅行です。ディズニーランドのような人工の施設ではなく、自然の森や海や川がある所で英気を養うことです。自然美が情緒力を高めます。明治維新期に活躍した志士たちの多くは地方出身者です。日本の田園風景を脳裏に刻んでいたことが、「明治維新という大業(たいぎょう)」(松浦光修)を成し遂げた力になっていると思います。
イギリスのノーベル賞作家カズオ・イシグロ氏は、『遠い山なみの光』の中で故郷長崎の原風景を描き込んでいます――「その日の午後の停留所の風景は、まざまざとおぼえている。ちょうど六月の梅雨が終わって太陽がかっと照りはじめたころで、雨を吸い込んだ煉瓦やコンクリートも乾きはじめていた。停留所は鉄道の線路をまたぐ橋の上にあって、線路の片側になる山の麓には、山腹からころがり落ちそうな格好でかたまっている家々の屋根が見えた……」。田園風景が祖先から受け継いだDNAにスイッチを入れたのだと思います。
藤原氏も田園風景に代表されるような「美の存在しない土地に天才は生まれない」(165ページ)と言っています。都心のビル街に育ち偏差値マシーンのように点数だけをとり、学歴をつけることだけを考えてもダメということです。
2つ目は、「跪(ひざまず)く心」と「精神性を尊ぶ風土」と言っています。日本は多神教の国なので、偉大な自然を前にすると自ずと頭(こうべ)を垂れます。神社、仏閣の前で静かに手を合わせ、先人が築いてきた文化と伝統に思いを寄せ、それを引き継ぐことが今求められています。地方には、廃れかけている文化が多くありますが、それを蘇らせ守り抜くことが「国家の品格」を高め、ひいてはそれが日本を守ることに繋がります。
3つ目は、感性の鋭い人が手掛けた芸術作品との出会いです。これらとの意識的な出会いが、情緒の力を高め、空気が読める力となるでしょう。
藤原氏は「外国語よりも読書を」(『国家の品格 147ページ』)と言っています。そして「私に言わせれば、小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法」(同 39ページ)と指摘し、現在の英語重視の教育に警鐘を鳴らしています。
今年の4月、いよいよ小学校で英語が本格的に導入されようとした、まさにこの時を狙うかのようにコロナウイルス禍による休校となりました。天災というのは、必ずそこにメッセージが含まれています。それを今の社会は読み取ろうとしません。偶然と考え、立ち止まって考えなければ、天はまた災害を起こします。それしか自己主張する手段がないからです。
そして、先にあげた3つのことに、もう一つ付け加えるならば、情緒を育む上での社会環境です。自然環境も大切ですが、自由に考え、思ったことが言える社会環境も重要です。画一的な社会では、情緒は育ちません。人は企業や団体に属していることが多いのですが、その内部が画一的な価値観で運営されていると、人間関係がぎくしゃくするのは、そのためです。
日本の教育は、中央集権的画一教育です。常に方針が上から勝手に降りてきます。現場にいて、いつもこれは何かなと思っています。失敗をしても、失敗とは言いません。あれ程力説していた「ゆとり教育」が、知らない間に、違う方針に変わっていたりします。突然「アクティブラーニング」と言い始めたり、英語の小学校の必修化や「公共」とか「歴史総合」といった新しい科目の導入をしたりなど、現場の意見を吸い上げることなく、一部の有識者の意見を聞いて勝手に進めています。まるで共産主義国の教育行政を見ているようです。これでは、情緒が育ちにくいと思います。空気が読めない子供が増え、一人ひとり勝手に行動するのは、そのためです。緊急事態宣言が出たにも関わらず、海に繰り出して我関せずとサーフィンを楽しむ若者たちは、そういった教育によって育ってしまったのです。
いじめ、不登校が当然増えます。教員養成のシステムについて真面目に考えていないので、不祥事も増えます。現場がブラック化すれば、当然教員のなり手は少なくなります。よき素質をもった国民ですが、「エリート教育」を受けただけで空気の読めない頭でっかちの人間が教育行政を動かしています。
そのため、大学共通テストという馬鹿げたことをしようとしています。中国をダメにした科挙の大学版です。大学入試は、個々の大学が求める学力基準に基づいて実施するものです。多様な入試が行われれば、多様な人材が集まります。偏差値で輪切りにした生徒を集めれば、画一的な人材が集まるだけです。
政府は教育について文科省に任せすぎです。教育の現場を知らない官僚が、教育行政を一手に担うという非常識なことが行われ、そのために日本の教育が疲弊しています。これでは、人材が育たず国際競争力は落ちるばかりですし、現に落ち始めています。
アメリカのように地方に教育権限を移譲することです。そうしないと、臨機応変にきめ細かい対応ができません。現にコロナ禍の中、今の時点で文科省は何もできずに事態の推移を見守っているだけです。こういう時に現場に対して、何らかの具体的対応ができないならば、権限を中央に集める意味がありません。今後も様々な問題が起きると思っています。
読んで頂きありがとうございました