(この文章は3/31日に書きました)
・持続的に成長する国家、企業、家庭には核があるということ
・澤田道隆社長(花王)の実践してきた優れた手法
・夫婦別姓の危険性
について書いています。
企業の「持続可能性」(サステナビリティ/ Sustainability)をどう考えるか
企業というのは、人が作った組織体ですので、「魂」を入れる作業をしないといけません。せっかく起業しても、短命で終わってしまう企業もあれば、中には1千年以上存続する企業もあります。その違いは、何でしょうか。
「理念、目標、共感」が企業の「魂」(核/理念)となります。そして、それらを企業のトップが体現していることが大事です。企業も含めて学校法人や宗教法人など、組織体を取りまとめているトップが組織の理念、目標について、自分の言葉で具体的に社員に継続して語ることができているか、そして社員がそれに対して共感しているか、それが一番重要ですし、それが出来ていれば、その企業は普通に「持続」し成長していくと思います。
まず、何をさておいてもトップにどういう人間を置くか、それが殆どすべてです。トップの力量以上に、組織が成長することはないからです。国家にしても企業体にしても、それは同じです。国家の指導者に好戦的な人間を選べば、戦争が絶え間なく起きることになるでしょう。融和的な人間を選べば、社内もまろやかな雰囲気に包まれるようになるでしょう。
少し、抽象論になっていますので、話を具体的にしましょう。「日経」(2020.3.26日付)の記事に「部下一人一人と対話する」という記事で花王の澤田道隆社長を扱ったものがありました。社員に対して、こういう考えを持っている会社の社員は幸せだと思いました。記事によりますと、研究所所長の時に、部下130人と全員面談された、と言っておられます。思っている方はいるかもしれませんが、なかなかできることではないと思います。この全員面談は、社内の「共感」づくりには役立つと思います。
そして、澤田社長はかつて社長であり、中興の祖と言われている丸田芳郎氏の著書である『一心不乱』が愛読書とのことです。会社の理念というのは、創業者とか、中興の祖と言われている人の考え方を受け継ぐことにより、確たるものになっていくものです。
そして、会社としての目標を「マス」から「スモールマス」に向けようとしています。どういうことか、多数の消費者を狙うのが「マス」、一定の顧客層を狙うのが「スモールマス」。収益を考えれば「マス」を狙うのが常道ですが、今までの商品開発は、一人一人の赤ちゃんやママに寄り添う中で行われてきたので、一度「原点回帰」して、足元を見つめ直そうとしています―—これこそが企業理念なのです。
これとは逆に、余り良くない例を上げましょう。ある程度の歴史がある企業ならば、前の代から受け継いできた理念や考え、企業文化が必ずあるはずです。ところが、企業のトップの中には、受け渡されたバトンの色や長さを変えたり、バトンそのものを棄ててしまったり、自分の勝手な考えで企業経営をしようとする人もがいます。大体、上手くいかなくなるのですが、そういう方の特徴は、話が抽象的で具体性に欠き、横文字や数字が多くなる傾向があります。
そして、目標として、「100年企業を目指す」、「売上1000憶円を目標とする技術者集団を目指す」といったものを掲げたりします。何年続いたかとか、売上というのは努力の結果であり、大事なのは何をどのように社員と努力する企業なのかが社員一人ひとりに分かるようにする必要があります。そういった視点や努力がないトップの企業に限って、準備がないまま新しい分野に手を出したり、業務提携、M&Aといったことを言い始めます。
学生諸君は就活の時に、何を基準にして会社を選んでいるのでしょうか。その辺りのことについて、意外とマスコミは報道しません。新聞社やテレビ局も就活の対象となっているからだと思いますが、就活の時は、トップが「理念、目標、共感」についてどの程度意識をし、それを具体的なかたちとして表れるように、日常的に何をどのように努力しているか、その辺りを注視して欲しいと思います。
家庭の「持続可能性」(サステナビリティ/ Sustainability)をどう考えるか
これについても温故知新ということで、先人がどのように考えていたのかを、まず探ることにします。
家庭の問題はプライバシーに関わることなので、基本的に関わらないようにしよう、というのが昨今の流れです。ただ、日本人は家庭こそが国家を支える大事な組織と考えていたのです。儒教の教えの中に、「修身、斉家、治国、平天下」という言葉があります。「斉家」というのは、家をととのえるという意味ですが、日本はこういった儒教の考え方にもとづいて家族のことを考えてきました。
国を一つのボディと考えた場合、それを支える多くの細胞にあたるものが家庭です。細胞に核があるように、家庭にも核があります、というか「核」を創る必要があったのです。そして、導入した制度が家父長制です。その名残が、戸籍法に残っていて、婚姻した場合は夫または妻の姓を名乗らなければならないとなっています。
夫婦別姓という国もありますが、夫婦が同じ姓を名乗ることによって家族の一体感を味わってもらい、それによって家族の「核」をつくろうとしたのです。
家族制度を学問的に説明しているのが儒教です。例えば、「孝」という徳目を説くのが儒教です。先人は、そういった教えによって家族制度を維持しようと考えたのです。 そして、家族という「細胞」が生き延びるためには、エネルギーを絶えず注入する必要があります。先人は、エネルギーになるものとして、儒教や仏教、あるいは神道といったものを考えました。エネルギーというのは、+(プラス)も-(マイナス)も区別する必要がありません。学問的薫りがなくても良いのです。悲しい想い出も、その対処の仕方によっては、エネルギーとなります。家族旅行、リクリエーション、誕生日会、初もうでなど、家族での想い出づくりとして行うものは、すべてその家族にとってエネルギーとなります。
日本は多神教の国です。大陸の民族のように、一神教ではありません。宗教に対するその様な考え方もあり、何かを求め、何かを排除するということは、少なくとも庶民レベルにおいてはありませんでした。それは何を意味しているのかというと、生き方の手本として、何か特定の価値観を意識的に採り入れるようなことをしてこなかった、ということです。
近年、夫婦別姓の動きが活発化しています。これは日本文化の破壊を目論んだ動きです。導入の理由として、他国の例を引き合いに出してきますが、比べる問題ではありません。
日本の家族制度は、国を支えるための一つの重要な制度として位置づけられていました。我々現代人は、軽々に捨て去ることを考えるのではなく、その「重み」を真摯に学ぶ必要があるのです。
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