(この文章は3/18日に書きました)
多分、農民でも、商人でも、庶民にとっては住みやすい時代だったと思いますよ。
江戸と江戸時代、すべての人を魅了した自然と文化があった
「どの国の春も美しいが、日本の春は格別である」。イギリスの陶芸家のロバート・フォーチュンが幕末の日本に来て、『探訪記』(講談社文庫)を書き遺していますが、その中の言葉です。そして、江戸は不思議な所、訪問者を魅了させる所と言っています。そして、その魅力を支えたものが庶民の生き様だったのです。
フォーチュンは、日本の桜を代表するソメイヨシノの起源ともなっている染井村にも足を運んでいます。当時は、世界最大級の植木市場があり、サボテンやアロエといった南米産の植物も並べられていたようです。
シーボルト事件(1825年)で有名なドイツ人医師のシーボルト(1796~1866)ですが、彼は大変好奇心が旺盛な人で、いいなと思うものを持って帰るようなところがありました。彼は多分、染井村に足を運んで、日本の植物を手に入れていると思います。あじさい、あやめ、つつじ、ゆり、さくらなどは、シーボルトが日本から種や苗木をヨーロッパに持ちこんだと言われています。
園芸や盆栽以外にも、江戸前寿司、天ぷら、浮世絵などが海外に広く知れ渡るようになります。シーボルトは葛飾北斎(1760~1849)にオランダの紙を渡して浮世絵を書いてもらっています。その絵はオランダやフランスに保存されています。ヨーロッパの19世紀の画家で日本の浮世絵の影響を受けなかった人はいなかったと言われています。パリの近代美術館には、画家にそれぞれの部屋があり、すべての画家のアトリエには浮世絵があったと言われています。ゴッホにも影響を与えたと言われています。
(シーボルト)
世にいうシーボルト事件の評価は、国禁の日本地図や江戸城の見取り図などを国外に持ち出そうとしたスパイ事件という扱いですが、彼には悪意は殆ど無かったと思います。国外追放されてしまったシーボルトですが、彼の「行為」によりヨーロッパの人たちの関心が日本に向けられる一つのきっかけをつくったことは確かです。
司馬遼太郎氏は現在の日本の「衰弱」を予見していた
江戸期の多様さを評価していたのが、作家の司馬遼太郎氏(1923~1996)です。それとは逆に、戦後の日本社会を批判的に見ていました。
1990年頃の時代風景を批判した言葉だと思います――「いまの社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか」(『この国のかたち』文藝春秋.1990年/123ページ)。
この文章は、平成に入った頃に書かれたものです。彼の予感通り、その後30年間日本は停滞し続けることになり、それは現在も進行しています。
そして、司馬氏は「こんにちの私どもを生んだ母胎は戦後社会ではなく、ひょっとすると江戸時代ではないか、と考えてみればどうだろう」と問いかけます。日本は「和」の文化ですが、一つのものを一つにまとめても、そこからエネルギーは生まれません。
多様なものを一つにまとめるところに意義があります。多様さは多ければ多いほど、エネルギーが増します。それは、昨年のラグビーワールドカップの日本が「ワンチーム」の掛け声でベスト8を果たしたことで証明されています。「忖度」という言葉が当たり前のように使われるようになってきました。余り良いことではありません。自分の意見がありつつも、それを抑えて上の考えに合わせてしまう、それでは創造性や発展性がなくなってしまうからです。
多様な人材を、どのように育成するかを多面的に考える必要あり
司馬氏が評価しているのは、各藩の藩校で行われていた「人材育成教育」です――「三百ちかくあった藩のそれぞれの個性や多様さについてである。この多様さの面のみ音量を上げてみると、江戸期は日本内部での国際社会だったのではないかとさえ思えてくる」(司馬遼太郎 前掲書/124ページ)と言っています。
「人材育成教育」の考え方を大きく2つに分けると、知識詰込み型と思考優先型(体験優先型)です。前者の代表的な例として挙げているのが、佐賀藩です。早稲田の創設者、大隈重信の出身藩です。彼は、そのような考え方に批判的でした。「佐賀藩の学制は、豈(あ)に余多の俊秀を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや」(『大隈侯昔日譚』)、つまり佐賀藩の教育システムでは、俊才を凡才にしてしまうと言っています。佐賀藩では暗記を重んじて、独創を否定したのです。
これとは対照的だったのが薩摩藩です。郷中(ごじゅう)教育で知られていますが、郷中というのは町単位の組織のことで、鹿児島の城下には数十の戸(家)が一つの郷中に組織され、郷中は全部で約30あったと言われています。郷中のリーダーが郷中頭で彼を中心として地域の子供たちを教育していたのです。郷中には特定の教師がいる訳ではなく、朝に集まってそれぞれ地域にいる藩士のところに行って儒学や書道、剣道などを学びます。習い終わった後は、集まって何を学んだかをプレゼンテーションして、その後は遊びます。意識的に勉学を遠ざけていたところがあります。あまり勉学に励むと、理屈っぽくなって士風が鈍磨すると考えていたようです。
そして、司馬氏は「大藩よりも小藩のほうが精度が高い学問をした」とのこと。そして、「士族の教育制度という点からみても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さが……明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる」とまとめておられます。
実は、そのような幕末期の経験が明治期の大学教育のあり方に生かされます。明治政府は帝国大学を全国に8箇所設置しますが、創造性を育てることが大事なので、自由な気風が重んじられました。これはスポーツでも同じだと思いますが、本当にトップの人間を育てようと思ったならば、強制や命令は逆効果になりますので、絶対に避けます。
それに対して、人間教育に関わる師範学校に対しては、全寮制の規律ある教育が施されます。どのような人材をつくるかによって、その教育のあり方を変えたのです。
現在は、何でもかんでも一つのものさしで測ろうという発想です。検定教科書、一斉授業、挙句の果ての全国共通テストですが、明治の先人が聞けば、腹の底から笑うと思いますし、司馬氏が心配していたことがここにあるのです。
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