(この文章は2020/2/25日に書きました)
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。
著書多数。
「万人に合った教育はない」がモットー。
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組織でも人間でも、最初から「こうあるべきだ論」が先行してしまうと、何も見えなくなります。いわゆる演繹法的なものの見方です。組織と組織、人と人、国家と国家、それぞれ対立してどうにもならなくなる場合がありますが、分析するとお互い演繹法的な考えで主張しているのです。演繹法なので、最初に結論ありきなのです。そして、お互い自分の方が正しいと思っているので、一番始末が悪いのです。今の日本の国会が、こういう状態です。
相模原の障がい者施設「やまゆり園」で大量殺人事件がありました。被告人の男は「障がい者は社会に迷惑をかけている存在、だから殺して良いのだ」という勝手に自分で立てた命題を真理と思い込んで、実行に及びました。
たぶん彼の今までの人生は、自分で何か命題を立てて行動する、ということを繰り返してきたのでしょう。彼がどういうふうに育てられたのかを向学のため知りたいと思っているのですが、恐らく親がそういった考えのもとで育ててきて、特に問題なく大人になってしまったのではないかと思っています。手のかからない子供だったと思っていますので、彼の親からすれば、何が起きたのか分からないのではないかと思っています。
何かものを作る場合は、演繹法的に考える必要があります。最初から目指すものがあります。30階建てのタワーマンションという目標があって、それを頭に描きながら設計図を描きます。ただ、人間の教育に関わることは、帰納法的に考えないと、失敗することが多いと思います。人間は非常に複雑な生き物だからです。計算通りにいかないことが多いので、いろいろな場面に子供を置いて、反応を見ます。
今まで教育に関する提言が、政府関係組織からいくつも出ています。これからも出ると思いますが、発想が演繹法的である限り、上手くいかないだろうと思っています。現場では、上の方から新しい概念(例えば「新しい学力観」「ゆとり教育」)新しいカタカナ言葉(例えば、「アクテイブ・ラーニング」)とともに、いろいろなものが降って来るという感覚をもっています。だからといって成果が上がっているかと言えば、見ての通りです。
それではどうすれば良いのかということです。人間相手なので、何が良いのか分からないというスタンスでいろいろなことを試してみるのです。いわゆる帰納法的な発想です。受験して私立中学ではなく、子供が興味をもっていることをやらせてみれば良いのです。実は私は小学校の頃はマンガ家になりたかったのです。
絵も幼稚園の頃から先生に習っていました。てっきり自分のことを理解してくれていると思ったのですが、絶対にダメと言われました。今でも、少しは引きずっています。たまに、マンガ家になっていたらと思うことがあります。
国の教育行政も同じです。今の思考パターンは、共産主義国と同じです。全国一律すべておなじカリキュラムです。中国からよく視察にくる理由が分かります。日本の小学校5年生は全員例外なく、4月から英語が必修となります。そういう発想では、新しい時代を生き抜く人材を育てることができないと思っています。
そうではなく、実験的にいくつかの自治体に計画を立てさせて、いろいろチャレンジさせれば良いと思います。例えば、2人担任制、国語、算数については能力別クラス、部活動はすべて指導員が行う、他の学校との交流行事、飛び級、幼稚園児の小学校入学体験、小学校1年生から英語必修、郷土芸能の時間など、思いつくままに書いてみましたが、それらを試行することによって、他の地域と比較してのデータが取れます。そうすると、それを手掛かりに、また別のことを考えることが出来、発展性があります。全国一律では、比較のデータが取れません。失敗して、また別の方針を上から流すということになり、それを繰り返すことになりますし、現にそうなっています。
教育というのは様々な試みの中から一つの光明を見いだせれば、それで良いと割り切る余裕が、新しい人材を育成することにつながると思います。
読んで頂きありがとうございました