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なぜ無謀な戦争に突き進んだのか ―— 陸軍は惨敗から学ぶことをしなかった / 組織が硬直して根詰まりが起きていた

  • 2024年12月7日
  • 歴史
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「今回はなぜ無謀な戦争に突き進んで行ったのかという、ことについてお話をしたいと思います」

女性

「「戦争責任」もそうですが、こういったテーマをマスコミは避けたがりますが、大事ですよね」

「何故このような話題に対してきちんと総括しないのか。その理由は分かりますか?」

女性

「何でしょうね。書くと叩かれるからですか?」

「自分の意見が少数意見だということが分かっていると、意見を言いづらい雰囲気に包まれます。それがどんどん膨らんでいってしまうということが起きます。ドイツの政治学者のノイマンはこれを「沈黙の螺旋(らせん)」と名付けました」

女性

「誰かが声を発することが大事だということですね」

「SNSによる発信なので、それ程孤立化を恐れる必要がありませんからね。オールド・メディアは多数派にソッポを向かれたら大変なことになりますからね」

女性

「その強みを生かして、敢えて少数意見でも恐れずに発信するということですね」

「王様は裸だと言ったのは、一人の少年です。その発言がきっかけになって、王様が裸であることが分かります」

女性

「ただ、「少年」は今までもいたのですよね」

「現れて叫んでいるのですが、周りがそれを無視してきたということです」

女性

「何故、無視をしてきたのですか?」

「日本特有の「長いものには巻かれろ文化」、「出る杭は打たれる文化」です。敢えて波風を立てないのが良いと考える人が多いのです」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「Fandom」提供です」

 武器の最新化をしなかったことが敗因

日清戦争と日露戦争は勝ったのに、どうして先の戦争には負けたのか日露戦争までは、当時で言えば「最新式」の武器で戦うことができたのですが、その後の武器の最新化をなおざりにしたからです。日露戦争の約10年後に第一次世界大戦が起きます。その戦争を通じて、世界の武器・兵器のレベルが上がったのです

戦車と飛行機が新たに兵器として使われ始めます。機関銃、自動小銃、高射砲、追撃砲というように多くの武器が使われ始めています。自動小銃というのは、1回引き金を引けば30発位弾を発射できます。それが戦場で使われ始めます。アメリカはヨーロッパよりも少し遅れますが、それでも1935~38年の間に単発式小銃から自動小銃に切り替えます。日本陸軍は自動小銃にお金をかけるよりも、従来の単発式小銃で良いと考えたのです。

戦争の勝敗は、最後は陸上戦で決着が着きますが、日露戦争でとった作戦は白兵戦です。三八式歩兵銃というのは、銃剣付き小銃のことです。小銃は1発ずつしか撃てません。あくまでもそれは相手の陣地に近づくためのものであり、敵を仕留めるのは小銃の先の銃剣です。敵の砲弾の嵐の中をかいくぐるという作戦なので、多くの犠牲者が出ます。それでも勝てたのは、相手方の武器もその程度のものだったからです。とにかく日本の陸軍は第一次世界大戦の主要な参戦国陸軍の中で主戦場に姿を見せなかった唯一の軍隊です。世界の最先端の武器・兵器の実態を学ぶ機会がなかったため、二流の軍隊に転落していたのです。

(「ピクシブ百科事典-Pixiv」)

 陸軍は惨敗から学ぶことをしなかった

1939年5月から9月初めまで満州と外蒙古の国境周辺での紛争が起きます。ノモンハン事件と呼ばれているものですが、日本対ソ連の陸軍対決でした。日本陸軍にとって初めての近代戦だと言われていますが、相手の武器が威力を増しているのに、相も変わらず白兵戦を仕掛け、圧倒的な武器装備の違いのため大敗を喫します。

自動小銃 522(ソ連):0(日本)  軽機関銃 531(ソ連):44(日本)  機関銃 211(ソ連):39(日本) 高射機関銃 72(ソ連):0(日本)  速射砲 155(ソ連):11(日本) 軽砲 96(ソ連):8(日本)  高射砲 6(ソ連):0(日本) という具合です。これはデータのほんの一部ですが、これだけ見ても大敗の原因が分かります。総人員1万5140人中、戦死傷・行方不明者1万646名でした。第23師団は参謀長と捜索連隊長が戦死、3人の歩兵連隊長のうち1人が戦死をし、2人は自決をする、という悲惨な状況でした

ソ連軍の圧倒的火力と大量の戦車の前になすすべもなく敗れたのです。ここまで惨敗すれば、そこから何かを学ぶ必要があるのですが、何も学ばず、先の戦争でも三八式歩兵銃を使ったのです。先の戦争で多くの参戦国のうち武器弾薬の移動運搬に馬力人力を使ったのは日本軍と中国軍だけと言われています。

(「産経新聞:産経ニュース」)

 組織が硬直して根詰まりが起きていた

練習試合で惨敗すれば、本戦の試合に勝てるはずがない。勝つためには、レベルアップを図る必要があるのですが、それをせず、更に強敵である米英に立ち向かったのです。H・G・ウェルズは「将来の歴史家は日本の当局者の頭脳はインサニチー(精神異常・発狂)を疑うだろう」と言っています。元首相の若槻礼次郎は終戦の頃の陸軍は「半狂乱」だったと書いています。

何故、そういったことが起きたのか。組織が硬直して根詰まりが起きていたのです。一つの勢力、一つの価値観で染まると、根詰まりが起きやすくなります。陸軍を創設した時点で「硬直」の種は撒かれていました。1871年に薩摩、長州、土肥3藩が親兵(後の近衛兵)を設置し、翌年に兵部省が陸軍省、海軍省に分離します。陸軍省のトップに山県有朋、海軍省は勝海舟が着任します。山県有朋は長州藩ですが、やがて「陸軍は、山県有朋という人物が結成した単一の派閥が支配する陸軍」(大江志乃夫『日本の参謀本部』中公新書)になっていきます。優秀な人間を集めたはずと言います。陸軍大学校での成績をそのまま軍人キャリアの昇格の際にも使っています。現場経験のない者が幅を利かせる組織になっていったのです。

やがて参謀本部がつくられるのですが、「その特質は、……生みの親であり育ての親であった山県有朋の個性がつよく反映している点にあった」 (大江志乃夫 前掲書)のです。陸軍だけがその後、「皇軍」を名乗り始めます。『国体の本義』(1937)が出る頃は、「皇軍」を公文書に載せるようになっています。日本は尊い国、八紘一宇の大精神、日満支の強固なる結合による大東亜の新秩序なる言葉を士官学校や陸軍大学校で生徒に叩き込み、勝つ見込みのない戦争に突き進んで行ったのです。

(「株式会社ストアブレインコンサルティング」)

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