「現役の公立中学教師が女子中学生を誘拐するという驚くようなことが起きたのですが……」
「最近は、毎日のようにわいせつ教員の事件が報道されるようになりました」
「部活も勉強も熱心に教えていたということで、評判は良かったようです」
「いくら評判が良くても、そういうことをしたら終わりです」
「ただ、本当に多いですよね。小学生の娘がいますので心配なのです」
「冗談ではなく、学校と教室に防犯カメラを導入する時代なのかもしれませんね」
「どうして、こういうことが起きるのでしょうか?」
「何か問題が起きた場合、それを個人的な資質などに原因があるとするのか、それとも制度に原因があるとするのか。そこの判断が、まず求められます」
「難しいですね。両方のような気がします」
「個人的な資質ということになれば、それを摘み取り自覚を持たせるための研修会に参加させ、教員としての自覚を持たせることを考えなければいけません」
「ちなみに後者の場合は、どう考えればよいですか?」
「後者の場合は、教員養成制度そのものをつくり直す必要が出てきます」
「今、文科省は教科担任制を導入しようとしています」
「わいせつ事件の対策にはなりませんね。逆に、増える可能性があります」
「やはり2人担任制ですか」
「そちらの方が対策にもなりますし、働き方改革の趣旨にも添うことになります」
「現場の負担は、年々増すばかりです。まず、担任の負担を軽くする、それが子供たちにもプラスになって返っていくという捉え方が必要でしょうね。ここからが本論です ↓」
目次
『学制百年史』を紐解く
『学制百年史』(1972年)という、当時の文部省が出版した本があります。文部省は1872(明治5)年に設立されましたが、帝国議会の開設が1890年ですので、当時の明治政府がいかに人づくりを重視したのかが分かります。そういう意味で、戦後の政府とは大きく違います。
『学制百年史』というのは、この100年間の教育政策について項目ごとに記述されています。戦後の「教員養成」について、どのような論議があって現在のシステムになったのか調べてみました。
明治政府は人づくりとモノづくりの人材養成のあり方を変えていた
戦前の教員養成というのは、師範学校で専ら行われましたが、この師範学校の設立の伺いを文部省は「学制」発布前に正院に提出しています。そこから大急ぎでそれを進めます。大変急いでいたことが分かるように、時系列にしてみました。
明治5年4月 文部省、小学教師教導場設立の伺いを正院に提出
明治5年5月 正院から許諾あり
それを受けて直ちに文部省は「師範学校ヲ開キ規則ヲ定メ生徒ヲ募集ス」ることを通達
明治5年8月 入学試験を実施し、合格者54名の入学を許可して9月から授業を開始
「学制」は明治5年8月に発布されていますが、その時点ですでに師範学校の生徒募集が行われ、授業も始まっていたのです。いかに当時の文部省が教員養成を重視し、それを急いでいたかが分かると思います。
ただ、その一方で教員の品行方正については厳しく定めています。明治13年の改正教育令で「品行不正ナルモノハ教員タルコトヲ得ス」という規定が加えられています。さらに翌14年には「学校教員品行検定規則」を定め、品行不正の者は免職さらには免許没収もありとしたのです。
その時代の考え方の大きな特徴は、人づくりとモノづくりは違うというところから始まっていました。人づくりに関わる教師の養成をまず考え、それはモノづくりや金儲けとは違うので別枠で募集し、教育するという考え方だったのです。
その考え方は、基本的に正しいと思います。進学率が5割を超えてしまったので、元の教員養成制度に戻せるならば戻した方が良いと思っています。
戦後の教員養成は、長い議論の末、「二本立て」で行くことが決まった
戦後の教育行政は、敗戦という混乱とともに始まりました。校舎の消失、破損、価値観の倒錯、社会生活の窮乏と混乱といった状況の中で、教員の絶対数が不足していたのです。「当時の有資格教員のほか、高年齢の退職教員の再採用によってもまかなえず、教員免許状を所有しない中等学校卒業者等を助教として多数採用したが、そのなかには高等女学校卒業者が多かった」(『学制百年史』756ページ)とのことです。
戦後の教員養成をどうするかという議論が敗戦と同時に行われたのですが、上記の社会事情がその内容に大きな影響を与えることになります。議論は教育刷新委員会の中で繰り広げられますが、主な論点は師範学校のように教員養成のための大学を設けるかどうかということでした。
かなりの議論があったようです。「1947年5月の総会においてようやく結論に達し」(同上)たと書かれてあるのでそれが分かります。長い議論の末に、教員養成大学と総合大学ないしは単科大学の二本立てで教員養成をすることになります。
つまり、教育を専門に勉強した者も教員になれるし、一般の大学・学部の者でも教職課程の単位をとれば教員免許を取り教員になることができるとしたのです。これが、いわゆる開放制度と呼んでいるものです。この新しい制度は、1949年からスタートすることになりますが、教員不足という現実問題が開放制度の後押しをすることになります。なお、教員不足については、1953年頃になってようやく解消をし始めることになります。
教員養成システムに制度疲労が見られる
建物も古くなれば建て替えます。制度も実態に合わなくなれば、設計をし直す必要があります。戦後つくった教員養成のシステムですが、もうすでに70年以上経っています。時代に合っていない制度を使っていれば、今のようにマイナスの事例がいろいろ出てくることになります。
開放制度を始めた頃の大学の進学率は、7~8%程度でした。ところが、現在は50%を超えています。大学の総定員数を受験者数で割った数字は83%くらいになります。つまり、特に希望の大学、学部がなく、どこでもいいという受験生の5人のうち4人はどこかの大学に入れるということです。「大学全入時代」と言われる所以です。
(www.pinterest.jp)
そういう状態なので、当然大学生の「質」は落ちます。教員の質も連動して落ち、さらにはそれに教えられる子供たちの「質」も落ちていきます。負のスパイラルが進むことになります。
そういう中で、いじめ、不登校、教員のわいせつ事件が起きているという捉え方をする必要があります。そのように考えれば、根底にあるものは一つだということが分かると思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、「ブロク村」のクリックをお願い致します ↓