(この文章は3/16日に書きました)
以心伝心の文化
ケント・ギルバート氏はアメリカの弁護士です。日本のテレビに出演されていたり、各地で講演会をされていたりするので、ご存知の方も多いのではないかと思います。初来日がおよそ50年前、それ以来、『古事記』や「源氏物語」などの古典から始まって「吾輩は猫である」、『破戒』といった多くの近代文学を英訳ながら読破されています。谷崎潤一郎に夢中になり、三島由紀夫の『豊饒の海』第一巻の『春の雪』は衝撃的と語っておられます。それを読んで、私も読まなければと刺激を受けました。
阿吽(あうん)の呼吸とか、空気を読むということを日本ではよく言われます。いわゆる以心伝心の文化ですが、自然崇拝も含めて、農耕民族のDNAが育んだ文化だと思います。農作業における個人プレィはご法度です。一斉耕起という言葉があるように、田植え、草取り、落水(稲刈り直前の作業)から稲刈りまで、すべてタイミングがありますので、周りと合わせて一家総出、全村挙げての農作業を行うことが求められます。そういった農耕民族である日本を表す漢字を1字で示せと言われれば、「和」だと思います。その「和」は「輪」に通じます。その「輪」の中に入れることができれば、それは仲間なので、後は固いこと抜きの世界になります。
ギルバート氏は日本人の「不思議な親切心」や「飲みニケーション」を大変評価しています。「不思議」と言っているのは、親切な行動に移るのに「間」があるということです。アメリカ人は、即行動なので、日本人の一呼吸の「間」を「不思議」と表現しています。
「間」を敢えて解説しますと、対象となっている人物を「輪」の中にいれるかどうかを「判断」している時間です。それを通過さえすれば、もう仲間なので「おもてなし」をすることになります。欧米は契約社会なので、まず契約ありき、契約成立の暁にお祝いの乾杯ですが、日本の場合はそれが逆になります。
天皇を中心とした国体
「日本人が幸せだといえる最大の理由、それは日本に天皇が存在するという事実かもしれません」、「天皇は、日本の社会に秩序をもたらしています」としています。今も「国体」という言葉を使うことにためらいを覚える人が多い中で、「天皇を中心とした国体」(があるから、私は住み続ける)とあっさり言い切ってしまうところに、さすがはアメリカ人の弁護士と変に感心してしまいます。
彼が天皇をどのように説明しているのか、それが問題です。天皇は「Reign」、国王は「Rule」と表現しています。そして、「Rule」は力によって国を統治する存在ですが、「Reign」はローマ法王のような存在、心の拠り所、あえて言えば「権威」という意味とのことです。
ただ、事実誤認があります。「明治維新では、この『Rule』と『Reign』の統合を目指しました」(155ベージ)「実権は天皇にあると定めることにして、天皇を絶対化しました。ゆえに明治政府は、憲法を作る際、英米型憲法ではなくドイツ型憲法を採用したのです」(163ベージ)とありますが、そうではありません。
その点について、明治憲法の起草に加わった金子堅太郎は「独逸(ドイツ)の憲法は我が日本国憲法を起草するに当たり或る条項に就いては採用すべきものが多々あったけれども其の皇帝を以て機関の如く論定する精神に至っては我が日本国憲法に採用することはできなかった」(「帝国憲法制定の精神」)と明確に述べています。
「天皇が最後に実権を握っていたのは、初めての武家政権たる鎌倉幕府が開かれる前のこと」とありますが、皇族同士が最後に権力争いをしたのが壬申の乱(672年)です。その戦いに勝った大海人皇子が即位をして天武天皇となり、彼のもとで現在の象徴天皇制の原型が作られ、その理論的後付けのために『古事記』が編纂されることになるのです。
ジャパニーズドリームがしぼまないうちに
ギルバート氏はあと、主に日本の魅力として「公の精神」、「道徳心」、「美しい自然」などを挙げています。これらは数字には表れませんし、長年の積み重ねの結果によって獲得できるものだと思います。
これを守っていくためには、幼少期からの教育が大事となります。そして、これらの最大の敵は何かと言えば、唯物論です。唯物論の蔓延がやがて利己主義を生み、拝金主義を育てます。
『礼記』の楽記の中に、音楽とは人の心の動きによって生ずるものであり、その心は人の周囲の出来事の影響を受けていると言っています。つまり、社会が退廃していけば、人の心も荒んでいき、それと同時に自然も荒れ果てていきます。文化の退廃は国の滅亡をもたらし、自然の荒廃もまた、人の心を荒れたものにして、国を衰退させます。すべては、連動しているのです。そんな視点から、周りの自然や社会の動きを見て欲しいと思います。