(この文章は3/14日に書きました)
コロナ恐慌
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資本主義の次も資本主義がくる
今回のような株式市場が乱高下するような場面が起こると、中には恐慌から資本主義崩壊というシナリオを思い描き、次の来るべき社会主義社会の到来を期待する人もいるのではないでしょうか。
朝日新聞の50代の編集委員が13日のツイッターで、今回の武漢コロナ騒ぎについて、「トランプ大統領の東京五輪延期発言」や世界株安のニュースを引用し、「あっという間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄(おのの)く、ある意味痛快な存在かもしれない」とつぶやいたとのこと。批判が殺到して、アカウントが削除された(「夕刊フジ」2020.3.15日付)とのことですが、資本主義の動揺に関心をもって書いた文なので、コロナで多くの犠牲者が出たことを半分忘れてしまっていたのでしょう。指摘をされて、そのことに気が付いて削除したというところでしょう。
マスコミには、秘密党員として多くの共産党員を潜り込ませていると、かつて聞いたことがあります。そういう人の口から、つい本音がポロリと出ることもあります。演繹的に思考する彼らは、資本主義が煮詰まっているので、次には社会主義になるはず、革命の機運が高まるはずという発想をします。
マルクスはそういう理屈を考えましたが、資本主義というものは、競争市場が舞台である限りにおいて無くなることはないでしょう。つまり、自分の衣食住を含めて、すべての物やサービスをすべての人が自給自足することができた場合は、資本主義が無くなりますが、そのようなことはあり得ないでしょう。
資本主義が人間にとって極めて自然なシステムだと思う「証拠」は、「波」が形成されることです。市場で企業と家計と政府の間で、財とサービスが「通貨」を媒介にして売買されています。それが様々な「波」を生みます。海は生きているから波を生みます。人間も生きているので脳波がありますし、心電図もとれます。問題なのは、今回のように「不整脈」が起きる場合です。心臓に負担が掛かり過ぎれば、入院ということもあるかもしれませんが、生きている限りは、また脈を打つでしょう。
社会主義の発想は、「波」を完全にコントロールしようとするところに特徴があります。波があれば、上手いサーファーであれば波に乗れますが、下手なサーファーは波間に沈んで溺れてしまいます。それは不公平であり、不平等、そこから「格差」が生まれてしまうと考えて、「波」を「悪者」扱いにしたのです。ただ、自然界に波は付きものです。当たり前に存在する前提を否定したところに、社会主義の悲劇が起きることになります。
中国共産党は、その「波」を利用して冨を蓄え、その富を国力増強のために使いながら拡張政策を続けつつ、国民を一党独裁の支配下に置いています。多くの日本企業が中国に事業所や工場を展開していますが、客観的には反日活動の手助けをしています。そして、今の日本政府はそれを後押ししている、というのが現在の状況です。
公益資本主義の模索が始まっている
それでは、資本主義はどこへ向かうのでしょうか。佐伯啓思氏は「資本主義は、常に『フロンティア』を求める。『未知の領域』を求め、それをフロンティアとして開拓してゆく。本質的にこのようなダイナミズムによって成長を生み出す。同時にそれは、ただGDPの増加というだけでなく、社会のあり方を変えてゆくのです」(『さらば、資本主義』新潮社.2015年/187ページ)と言われます。
書き方が少し抽象的ですが、GDP(国内総生産)に代表されるような利益を念頭に置いた数字を追い求めるのではなく、社会的貢献とか社会的責任といったものに価値をもって活動する経済体制に生まれ変わろということです。
最近はSDGsと言う言葉がよく使われるようになりました。日本人は本当に新しいもの好きだなと内心思っています。それはともかくとして、SDGs(Sustainable Development Goals/持続可能な開発目標)」のアドバルーンだけを上げていても仕方がありません。まさに、このような今の状況下で、各企業が世のため、人のための行動ができるか、ということが試されているということだと思います。
かつて、19世紀に、もと大坂町奉行与力だった陽明学者の大塩平八郎が起こした乱がありましたが、それは民衆を救うために私財を投げうって、決死の覚悟で蜂起をしたのです。彼のその熱き思いが、後々語り継がれることになるのですが、そのような男気がある企業の出現を期待したいと思います(法を犯せといういう意味ではありません。念のため)。
無理をする必要はありません。会社が潰れてしまえば身も蓋もありません。気持ちを社会に示すことが大事だと思います。工夫次第で、いくらでも社会に還元できる方法はあると思います。
日本人の「おもてなし」精神を生かした公益的な行動が、政府、企業、国民を問わず求められている時だと思います。