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国立大学の学費問題を考える ―— 国立大学法人化の意味 / 文系、理系の枠組みを外すことが国際化の第一歩

女性

「国立大学の学費を値上げするという話が出ています」

「心配ですか?」

女性

「子供を持つ親として、大学の学費は気になるところです」

「まあ、そうでしょうね。本来は、親御さんにそういう心配をさせてはいけないと思っています」

女性

「国立大学の学費を国が「標準額」として定めているそうですが、その意味が良く分からないのですが……」

「今は国立大学法人ということで独立性が保障されているので、各大学で事業計画を定めることになっています。当然、学費として徴収すべき額も異なります。そこで余りバラツキが出ないようにということで「標準額」を定めているのです」

女性

「そういう中で東大が値上げを検討しているそうですね」

「ご子息のことを考えると、今から心配ということですか?」

女性

「何となく茶化されている感じですが、東大の学費が上がれば、他の大学に波及すると思うからです」

「その見方は正しいと思います。特に日本は、「右倣え」の感覚が強いですからね。ただ、どうせなら大学の文系、理系分けの問題を論じて欲しいと思っています」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「常陽銀行」提供です。このブログは火、木、土の週3回配信です」

 「受益者負担主義」のもと国立大学学費を値上げ

かつての国立大学は、国が財政的に支えていました。そのため学費が安く、低所得の家庭でも払えるような金額だったのです。私も約50年前に国立大学に入学しましたが、学費は月額3千円、入学金が5万円でした。父親が入学金と1年間の授業料を払いに10万円持っていったらおつりがきたと言って喜んでいたのを覚えています。

ところが、その頃から国立大学学費の値上げが始まります(下のグラフ参照)。その時の文部省(当時)の唱えた(屁)理屈が「受益者負担主義」です。要するに、国立大学で学ぶ者は将来にわたって社会で稼ぐ力を身に付けることができるので、将来の利益相当の負担を払うべきだと言うのです。

もともと国立大学は国家にとって必要な人材の育成のために創設されたものです。だからその時に、国家公務員や地方公務員といった公益性の高い職に就く人をどの程度育成したかによって負担額を変えれば良かったのです。それをせずに、すべての国立大学に一律に「受益者負担主義」による値上げ路線を導入したのです。そこから、国立大学学費が急速に値上げされることになります

(「読売新聞オンライン」)

 国立大学法人化の意味

2004年度から国立大学は「国立大学法人」となりました 国が財政的に責任を持ちながら、自主・自立という大学の特性を活かした運営をしてもらおうという意図の下での措置です。この措置も全国一斉に行いましたが、殆どの大学が組織的な準備がなされないうちに法律だけを通してしまったように思われます。

「国立大学法人」になったということは、独自の大学運営が求められます。今までは国からの交付金と学費を合わせた資金だけで大学を運営することを考えれば良かったのですが、プラスアルファの事業計画と資金計画が求められるようになったのです。というのは、徐々に国からの交付金を減らすために法人化に踏み切ったからです(下のグラフ参照)。

要するに、これからは各国立大学が持っている人的資源と物的資源を使って資金を調達しなさいと言っているのです。大学の施設や空き地を有料で貸し出す、市民を招いての有料市民講座、企業との提携や共同研究など、さまざまな収益事業を考える必要が出て来たのです。当然、理事会を立ち上げて、大学全体のガバナンスの在り方を定める必要があるのですが、その立ち上がりが遅いと思っています。そのため、運営資金が枯渇し始めて、学費を上げたいという声が上がり始めたと見ています。

ただ、大学当局は単に資金が足りないと言うだけではなく、ガバナンス整備の進捗状況と今後10年間の資金計画・事業計画、さらにはどの部署でどの程度の資金が足りないかといったものを示す必要があります。現在は、足りないから値上げしたいという声しか聞こえてきません。これでは、子供のお使いです。

(「鹿砦社」)

 文系、理系の枠組みを外すことが国際化の第一歩

文系、理系という日本独特の専門別コースを設け、すべての学部はそのどちらかに区分されます。その上で入学試験を実施し、合格した場合は、それぞれの学部が求める単位を修得することになるのですが、その時点で「専門」が決まっているため、他の学部の科目を専門的に学ぶことは出来ません。

アメリカの場合は、文系、理系という区分けがないので、仮に教育学を習得するために入学した人が、生物学に自分の適性を見つけたならば、その方面の学問を研究することができます。現に、明治時代にアメリカに留学した津田梅子がまさにそうだったのです。

日本の文理分けのシステムは戦前からのものです。明治政府が掲げたスローガンが西洋に追いつけ追い越せだったのですが、西洋のサイエンスとテクノロジーの両方を同じように習得していたら追いつくことは出来ないと考え、テクノロジーの習得だけをいかに短期間で習得できるかを考えたのです。その結果、入学時からの文系、理系分けが導入されたのです。効率性だけを考えた上での措置だったのですが、これが戦後まで受け継がれます。日本の世界大学ランキングが何故上がらないのか文系、理系に明確に分かれてしまった固定的な教育課程が大きな原因だと思っています。日本人の視野を広げるためにも、見直しが必要です。

(「個人指導塾マナビバ」)

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