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大東亜戦争の原点は明治にあり ―― 日本はどこで誤ったのか? / 脱亜入欧から帝国主義、そして敗戦へ

「大東亜戦争という言葉が、目に付くようになりました」

女性

「私は第二次世界大戦があり、その中の太平洋戦争と習いました」

「私の父や母は大東亜戦争と言っていましたが、学校の授業でそういう名称で習ったことはありませんでした。何故なのかなとその頃はずっと不思議に思っていました」

女性

「私は戦争が終わって80年にもなるのに、未だに戦争の名称でモメていることが不思議です」

「そうでしょうね。要するに、戦争をどこで切り取るかの違いだと思っています」

女性

「切り取る、ですか……? 意味がよく分かりません」

「戦争というのは、ケンカです。そのケンカの原因をどこまで遡って考えるのかということです。直近のABCD包囲網あたりから切り取って、自衛のための戦争であり、東南アジア解放のための戦争、つまり大東亜戦争という理屈が成り立ちます」

女性

「大東亜戦争の名称を使うと、何か問題があるのですか?」

「2つあります。1つは、GHQ、つまりアメリカが不適切な名称と言って、占領下では使えなかった言葉です。この考えをアメリカは現在も変えていないと思います」

女性

「もう1つは、何ですか?」

「米英の植民地主義の対抗として「大東亜」を使うからには、朝鮮を独立させる必要がありました。さらに中国とは、日中戦争を戦っていました。それらを曖昧にしたまま、そういう名称を使ったという問題があります」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「日本史事典.com」提供です」

 脱亜入欧から大東亜共栄圏へ ――  一貫しない対外姿勢

明治から昭和の敗戦までの約80年間は、政権交代がない一貫した時代として捉えるべきです。元号は明治、大正、昭和と変わりましたが、明治維新を起点とする政権が継続していたことは重要です。

明治初期、日本は「脱亜入欧」を掲げ、朝鮮や中国に対して圧力をかける立場をとりました。1871(明治4)年には、条約改正交渉を名目とした岩倉使節団が欧米諸国を歴訪します。新政権の誕生直後であれば、本来まず挨拶すべき相手は隣国である清や朝鮮であったはずです。それにもかかわらず、使節団は欧米に向かいました。

当時、日本も清や朝鮮と同様に、欧米列強の帝国主義的圧力にさらされていました。中国や朝鮮は古代以来の交流国であり、連帯を模索する余地もあったはずです。そのような背景を無視して「脱亜」に舵を切った日本が、戦時期になると「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げるのは、極めてご都合主義的な姿勢と言えます。

(「NHK」)

 富国強兵と条約改正の論理操作

明治政府、特に藩閥勢力が掲げたスローガンが「富国強兵」です。これは日本が帝国主義国家としての立場を確立し、経済的な発展と軍事的優位を同時に追求するというものでした。

この文脈でしばしば持ち出されたのが、不平等条約の改正です。条約を改正するには「一等国」になる必要がある、そのためには戦争に勝たなければならないという論理が広められました。

しかし、近代史研究家の青山忠正氏は、「日米和親条約が不平等条約だったというのは、明治以降に作られた言説にすぎない」と指摘しています(『敗者の明治維新』洋泉社、2018年)。実際、1850年代に結ばれた和親条約や修好通商条約においては、領事裁判権を相互に認め、関税も協議によって決定する仕組みでした。関税自主権という言葉自体が当時は存在しておらず、「奪われた権利を取り戻す」という構図もまた、明治政府が自らの正統性を補強するための方便だったと言えます。


(「yayoigaoka-seminar.com」)

 戦争と正当化の連鎖──対外膨張とその帰結

日本が朝鮮半島をめぐって清と戦争を起こしたのは、ロシアの南下政策を警戒して朝鮮の独立を確保するという名目からでした。下関条約で遼東半島を得たものの、三国干渉により返還を余儀なくされ、逆にロシアの進出を招く結果となります。やがて日英同盟を結び、日露戦争に突入し、9万人を超える戦死者を出して「勝利」を装い、最終的に1910年に朝鮮を併合しました。

第一次世界大戦では日英同盟を理由にドイツへ宣戦布告し、中国青島や山東省の利権を奪取。その後の「21か条の要求」は中国国内の反日感情を高め、アメリカの対日警戒心を呼び起こしました。満州事変と満州国の建国、そして日中戦争の泥沼化、さらにはノモンハン事件でのソ連・モンゴル連合軍との戦闘では日本軍が敗北します。

戦線拡大に危機感を抱いたアメリカは経済制裁を発動します。これはロシアがウクライナ侵攻をやめないため経済制裁を発動するのと同じ理屈です。日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結び、ソ連とは中立条約を結んだうえで、米英との無謀な戦争へと突入していきました経済制裁への逆恨みを理由に始めたこの戦争には大義名分がなく、「大東亜共栄圏」という後づけの理念を掲げたに過ぎません。結果として何百万もの犠牲者を出す破局を迎えたのです

そして今日の政権は、敗戦をはさんで明治政府の系譜に連なっています。そのため、先の戦争を正当化する言説が今なお出回り、8月15日が近づくとその動きは顕著になります。備蓄米の対応などを見ても分かるように、明治以来この国の政権は、対症療法と屁理屈で物事を進めてきたと言えるのではないでしょうか。

(「s-yoshida7.my.coocan.jp」)

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