「中国共産党が留まるところを知らないという感じになっています」
「また、何かあったのですか?」
「『産経』の記事によりますと、中国の立法機関は『海上警備を担う中国海警局に武器使用を認める権限を定めた海警法草案を可決、同法は成立した。2月1日より施行する』としています」
「尖閣で操業する漁船や日本の巡視船が攻撃される可能性があるということですか?」
「法的にはそれがてきるようになったということですが、仮に攻撃をした場合は、日中間の友好はすべてそこで終わります」
「習近平主席の来日が保留のままですよね」
「それも白紙になります」
「ということは、単に魚を獲っていた程度では、攻撃をすることはないでしょうね」
「それをやってしまうと、民間人に対する攻撃なので、100の理屈を並べても正当化できません。多分、考えているのは、日本が尖閣諸島に何らかの造営物を造ろうとした時に、それを阻止する法的根拠を持たせたいということだと思います」
「日本側に、そういった動きはあるのですか?」
「勿論、ありますよ。中央紙は殆ど国境周辺の状況を報じていませんが、『八重山日報』は地元の石垣市長が新年の式辞で、新たな標柱設置と上陸を国に要請することを述べています」
「新たなということは、旧い標柱があるということですね」
「1969年に当時の石垣喜興市長が上陸し、標柱を設置しているのです。今回石垣市が10月に尖閣諸島の字名(住所の表示)変更をしたので、新たな標柱と言っているのです」
「その標柱を建てさせないようにしたいというのが、中国共産党の狙いということですね」
「多分、そんなところだろうと思います」
「標柱1つが、重要な問題になるのですね。ここからが本論です」
1/14「尖閣諸島開拓の日」―—現地で式典、その日も中国船の領海侵犯
尖閣と台湾は目と鼻の先にあります。台湾を支配したいと考えている中国共産党は、尖閣占領、または占有が一つの鍵を握ると考えています。そんなこともあり、中国指導部が昨年の2020年1年間の艦船派遣は330日を超え、さらに延べ艦船数は1150隻を超えています。2012年の国有化以来、最多を記録しました。ちなみに、これまでの最多は2019年の282日です。
一般に余り知られていないのですが、1月14日は「尖閣諸島開拓の日」だったのです。現地の石垣市は式典を今年も開催しました。今回で11回目だそうです。玉木知事、自民党の菅総裁、立憲民主党の原口副代表がメッセージを寄せています。そして、この日にも領海侵入をした上で、日本漁船に接近するなどといったことがあったそうです。
1971年になって、急に尖閣に対する領有権を主張し始めた中国共産党。ただ、尖閣をめぐる様々な歴史的な事実や事件のいくつかを紹介することにより、改めてこの島への日本人の思いを確認したいと思います。
地元の新聞『八重山日報』は、石垣市が尖閣諸島に関する資料収集や国内外への発信強化を目的とするふるさと納税を昨年の12月1日に募集したところ、1か月で5000万円を超える寄付があったと報じています。日本国民の思いは、そんなところにも表れています。
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尖閣の開拓者 古賀辰四郎
山本晧一著の『日本がもっと好きになる 尖閣諸島10の物語』(宝島社、2013年)という本が出版されています。
その「まえがき」を読むと、尖閣の開拓者が古賀辰四郎という人であったこと、尖閣周辺が海の難所でもあったため、遭難事故もあり、「命を救う島」の役割を果たしてきたことが分かります。そして、現在は無人島ですが、尖閣諸島最大の島の魚釣島に人が生活していたのは1896(明治29)年頃から1940(昭和15)年頃だったということが分かります。
「古賀辰四郎尖閣開拓記念碑」(石垣市)の清掃活動が1月14日に行われました。
同記念碑は「古賀辰四郎・善次親子の業績を記念し、1995年12月に八島緑地公園に建立。碑は尖閣諸島の形をしたモニュメントの下に、尖閣諸島に関する地図と古賀親子の業績などが刻まれている」(『八重山日報』2021.1.15日付)とのことです。そこを、14日の尖閣諸島開拓の日にちなんで、地元の自衛隊石垣出張書がボランティアの清掃活動を行ってくれたのです。
古賀辰四郎は、1856年生まれなので、今年が生誕165周年ということです。明治政府が尖閣諸島を日本に編入したのが1895(明治28)年です。そして、翌年辰四郎に開拓の許可が下ります。彼は魚釣島と久場島を拠点にして事業を展開します。
「夜光貝とアホウドリの羽毛の採取のほか、鰹漁・鰹節製造、植林など種々の事業を展開する。事業は魚釣島を中心に行われ、最盛期には200人以上の島民が定住し、『古賀村』とも称された」(『八重山日報』2021.1.15日付)とのことです。
中国人の乗組員31人を救った話
古賀辰四郎の事業を息子の善次が受け継ぐのが1918(大正7)年です。そして、その翌年に難破事故が起こります。
以下の記述は、『尖閣諸島10の物語』を要約したものです。
難破した当該の魚船は、1919年の11月下旬に福建省の港から出航しています。漁をして約1か月後の12月26日に暴風雨に遭遇し、帆柱を止む無く切り落とします。船の転覆を避けるためですが、そのため船は漂流をすることになります。遭難から5日目に座礁をし、乗組員は3隻の短艇に分乗します。そして、ふと彼らの前方に見えた島影が魚釣島だったのです。
島の人たちもそれに気付き、村を上げての救出活動となります。31名の中国人は救出から12日後の1920(大正9)年1月10日に石垣島まで送り届け、その後しばらく石垣島に滞在した後、大阪商船の便で台湾に向け出発したのが1月21日のことでした。
無事送り返して良かったのですが、次に彼らの救護や滞在にかかった費用をどう処理するかという問題が起きたのです。現在の貨幣価値に直すと300万円位とのこと。石垣村は財政的に苦しかったので、この話を政府にもっていきます。政府内に人道上、政治的事情で請求しない方が良いとの意見も出て、結局この交渉を長崎県に任せます。何故、長崎県かと言うと中華民国の領事館が長崎にあったからです。
様々なやりとりの中で、中国(中華民国)は日本に対して感謝状と費用の1/3を石垣村への寄付というかたちで決着します。
そして、当時中国側からもらった感謝状は、石垣市民会館展示ホールで今年の1月14日から17日まで展示されたとのことです。
読んでいただき、ありがとうございました。