「何となく、憲法改正が遠のいている感じがします」
「『朝日』の世論調査によりますと、国会での憲法改正議論、急ぐ必要ないが72%です。この数字をどう見るかです。『朝日』なので、多少割り引いてもいいのですが、それにしてもちょっと高めですね」
「自民党の支持層でも、急ぐ必要ないが64%です。コロナに呑み込まれてしまったという感じがします」
「何か新しく始めようとか、改正しようという意見を束ねるためには、どうしてもエネルギーが必要ですが、それが不足している感じですね」
「どうすればいいですか」
「出直しでしょう。改正の戦略を一度練った方が良いと思います」
「イデオロギー戦で負けている感じがしますからね」
「小学校から高校まで、必ず憲法学習をしますからね。今の教科書は殆どすべて肯定的に扱っていますからね」
「それもあり、私も、かつては護憲論者でした。9条を守って平和を守ろう、みたいに思っていました」
「9条や緊急事態条項などを論点にするのではなく、反対しにくいことを論点にして、1回改正するという既成事実を作ることを考えた方が良いでしょうね」
「憲法改正という言葉に、国民が一瞬身構える雰囲気があります。それを一度、取ってみたらということですね」
「憲法は変えてはいけないもの、という一種のアレルギーみたいになっていますので、その感覚を取り払った方が良いと思います。2段構え、3段構えの長期的展望のもとで行う必要があります」
「ただ、日本人はそういう策略的なことは、嫌いますよね。だけど、仕方がないということですね」
「マスコミや野党がキャンペーンを張りにくいような改正案を提起するのです。9条や緊急事態条項だと、待ってましたという感じで議論が尽きないですよね」
「何が良いですか」
「硬性憲法を軟性憲法に変えましょう、ですね。今回のような事態が起きた時に、素早く条文を変えて対応できます、という感じです。後は、前文です。前文は日本の悠久の歴史を書きたいですよね、と言ってそこを論点にします」
「後は、論点にしないということですか。逆に、改正したいという側の賛成と支持が得られない可能性があります」
「だから、2段構え、3段構え、と言ったのですよ」
憲法十七条の条文から古代日本の国家観を探る
日本を一つの王朝と見た場合、二千有余年続いている世界で最も古い王朝です。その長い歴史の中で、3つの憲法を定めてきました。従来は、これを全く別のものとして、個々に捉え、解釈してきましたが、そもそも一つの繋がった歴史の中で生まれた憲法であるならば、それらを統一的に解釈する必要があると思います。
憲法十七条の第一条の後半に、当時の国家観が書かれています。「上和(かみやわら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。……」。前半は有名な「和を以て貴しとなす」ですが、その和というものは、上の身分の者も守るべきこととしているところに注意をして欲しいと思います。
なぜならば、そこが日本の国家観と西欧の国家観の大きな違いだからです。西欧では、国家権力と国民を対立した契約関係の中で捉えます。国民は自分の生命と生活を守るために権利を行使し、契約違反という事態に対しては革命権で対抗できるという論理がつくられます。つまり、西欧では、権力者と国民は対立関係で捉える点が、日本と大きく異なる点なのです。
「和」の精神が明治維新、さらには明治憲法に受け継がれる
その和の精神が如何なく発揮されるのが、明治維新です。「太平の眠り」から目覚めて周りを見渡してみると、欧米列強の国に取り囲まれていました。一大事ということで、上の者も下の者も力を合わせて国難を乗り切ったのが明治維新だったのです。下級武士たちが主に活躍しましたが、彼らは利他的精神を生かし、日本の未来のために立ち上がったのです。
明治維新を市民革命として捉える向きがありますが、維新を担った下級武士たちが実権を握っていません。それどころか、武士階級そのものが消滅しています。革命というのは、主体となった勢力が社会の頂点に君臨することですから、考え方に無理があります。歴史や社会は数学のように何かの公式にあてはめようとすると、見当違いが起きますので注意する必要があります。
ところで、この明治維新は、権力関係でみた場合は、どのような意義があるのでしょうか。
それを検証するために「王政復古の大号令」を見ることにします。その冒頭に「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退……」とあり、委任していた政権が朝廷に返上されたことが分かります。そして、その返上された政権を天皇は今度は、大臣に委ねます。天皇は権威の象徴であって、権力をもたないことを7世紀にすでに決めています。その考え方に基づく伝統的な措置だったのです。そして、「王政復古」とありますので、「和」の政治が提唱されたということです。
前文に「朕カ在廷(ざいてい)ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責(せめ)ニ任スへク…」という言葉と55条の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」を併せ読むと、徳川家が返上した政権を、今度は国務大臣に委任していることが分かります。そもそも、「臣」というのは、連と並んで、古代からそういう役割を果たしてきた職制の名称です。
明治憲法の精神が日本国憲法に受け継がれる
敗戦となってその後、現在の日本国憲法が制定されることになります。この憲法は、日本を再軍備させないという目的のために占領軍が定めたものですが、形の上では第90回帝国議会で明治憲法を改正するかたちで制定されています。
ところで、日本政府はポツダム宣言の受諾にあたり、天皇の地位に変更を加えないこと、すなわち「国体護持」を条件にしています。ポツダム宣言は、「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」、「民主主義的傾向の復活強化」、「基本的人権の尊重の確立」などを要求しており、日本国憲法はその整合性が保たれたと考える必要があります。つまり、元首と天皇の地位については変更されていないと解釈するのが自然です。
日本国憲法には、元首の規定がありません。そのため、しばしば問題にする人がいますが、これは明治憲法と合わせて解釈することと、実際に天皇が外国からの来賓に対して接待をされていることを考え合わせれば、規定がなくても日本の元首は天皇ということに落ち着く問題だと思います。
そして、実際に2つの憲法を見比べると、両方とも第一章は「天皇」となっています。さらに明治憲法は、その第1条で天皇が国を統治するとありますが、その統治は「治(し)らす/知らす」の意味であることを伊藤博文は『帝國憲法義解』の中で書いています。
「治(し)らす」というのは日本独特の考え方です。それは、国を一つの大きな家(大宅/公)とした上で、領土や民を私的に所有するのではなく、代表して治めるという考え方です。この考え方に基づいて象徴天皇制が定められたと解釈するこが穏当だと思います。
以上、駆け足で3つの憲法の「流れ」を概観しましたが、このように3つの憲法を同一線上に矛盾なく解釈できるとするならば、憲法の改正は必要ないのではないかというふうに思うかもしれません。その辺りについて、次回のブログで書きたいと思います。
読んで頂きありがとうございました