(この文章は4/5日に書きました)
古事記及び日本書紀が書かれた時代とは
グローバリズムの流れが止まり始めた頃、まさにそれの息の根を止めるかのように、世界中コロナ騒ぎで包まれています。日本もその渦中にありますが、大事なことは、『古事記』や『日本書紀』といった歴史書から何かを学び、民族のアイデンティティーを探究、確立することです。
歴史書は民族の鑑(かがみ)です。奇しくも、今年が日本書紀成立から1300年目にあたる年でもあります。偶然の偶然はありません。偶然の中に、必ず必然は入っています。何らかの意味がそこにはあるのです。
学校の歴史教科書には題名程度の紹介しかありませんが、教えてはいけない訳ではないので、現場の教員が自分なりに学び、子供たちに伝えていって欲しいと思っています。今は、『古事記』も『日本書紀』もマンガ本や文庫本、様々な解説本が出ていて、その気になれば学ぶことができます。
『古事記』も『日本書紀』も、天武天皇の命によってその編纂の事業がスタートしています。どうして同時期に2つの歴史書を、という疑問から「古事記偽書説」が生まれますが、編集者の太安万侶の墓が1979年に奈良市の茶畑で偶然見つかったため、その説は雲散霧消しました。ただ、それでも「偽書説」にこだわる人もいます。
歴史書を読む場合、大事なことは先人たちが置かれた時代状況の中で、日本の国をどのように考え、どのように存続させようとしたのかを学びとることです。「記述のうち史実ではない部分を巡る実証的な研究をさらに進め」(「日本書紀と現代/成立千三百年の教訓」「東京新聞社説」2020.1.13日付)ることではありません。猜疑心をもち、目を皿のようにして読んでも、何ら教訓は導くことはできないでしょう。
日本は663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗します。この歴史的事件がなかったならば、記紀の編纂はなかったかもしれません。『古事記』、『日本書紀』の編纂は、天武天皇の「日本防衛」の考えに基づくものです。
『日本書紀』は対外的に正式の漢文を使って書かれていますので、現代流で言えば、国際公文書です。ボリュームも30巻とかなりの分量です。中国(唐)に対するイデオロギー的な「攻撃」という性格もありますし、国内の官吏の意識を高めるという役割もあったと思います。
当時の唐は大帝国ですし、日本征服の話も漏れ伝わってくるような状況です。相手に対して、日本は神が創った国であること、歴史がある国であることを相手に示すことができれば、攻撃を躊躇するであろうし、そうなれば国家防衛に繋がると考えたのだと思います。
『古事記』と『日本書紀』を比較して分かること
イデオロギー的な「攻撃」という面が、どうして分かるのかと言えば、2神の名前の付け方で分かります。高皇産霊神(日本書紀)と高御産巣日神(古事記)、神皇産霊尊(日本書紀)と神産巣日神(古事記)、それぞれ同じ神ですが漢字を変えています。皇帝の「皇」の字を入れることにより、相手への目に見えないプレッシャーになると考えたと思います。
『古事記』では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を最初に登場させます。この神が極めて重要な役割を果たすことは、昨日のブログでお話をしました。『日本書紀』には、出てきません。ということは、中国に知られたくない原理がそこにはあるのです。中国には陰陽の考え方があるので、2つの神を登場させるのは差し支えない、但し、もう一人の神を登場させたことから、何かを気付かせてしまったら大変なことになる、という判断があったのです。
イザナギ、イザナミの2神による国生みの話は、『古事記』にも『日本書紀』にもありますが、微妙に違います。実は、その微妙な違いに大きな意味があるのです。
『古事記』では最初国生みの儀式の「声掛け」は、どちらが先に声を掛けるかということが問題となります。イザナミが先に声を掛けて「蛭兒(ひるこ)」が出来たと言っています。これは失敗という意味です。イザナギが先に声を掛けると上手くいったと書かれています。ここで初めてイザナギが+(プラス)の放出エネルギーの意味であり、イザナミが-(マイナス)の受容する側だということが分かる仕組みになっています。そして、プラスとマイナスの順番を変えてしまうと、この世界では何事も上手くいかない、ということを教えているのです。
そして、この場面はイザナギとイザナミを使って、物質の法則について語っている場面でもあるのです。「天の御柱」を左から右に回った陽のイザナギが+(プラス)のエネルギーを発すると言っています。「アルペールの右ネジの法則」というものがあります。アンドレ=マリ・アンペール(1775-1836)が発見した法則ですが、電流の方向を右ネジの進む方向として、右ネジの回る向きに磁場が生じる、というものです。『古事記』はそのことを先取りして、日本人に教えていたのです。
さらに、イザナギとイザナミは「天の御柱」をそれぞれ反対方向に回ります。この回ったという行為とどちらから回ったかが重要なのです。
三柱の神の登場は、この大宇宙が主たるエネルギーとプラスとマイナスのエネルギー、合わせて三つのエネルギーによって包まれていることを示しているのです。そして、陰陽の法則は地球を含む宇宙全体を貫く法則である、と言っています。
『古事記』は、これらについて、誤解を受けやすいような意味深な台詞を随所に散りばめたのは、中国に宇宙の法則とそこから導かれる国家統治の原則を知られたくないという思いが強かったからです。だから『日本書紀』には、そのような細かなやりとりが省略されています。最初に本州を生み出し、それに続けて島々を生んだとしているのです。
もし、分かってしまえば、中国に巨大でしかも安定した王朝が誕生し、日本はやがては呑み込まれてしまう、と考えたのです。警戒すべきは中国と先人は言っているのですが、それは現在も同じです。
『日本書紀』が書かれた意味を再確認する/日本らしく毅然とした生き方を
先人たちは狩猟民族である中国の本質を充分理解し、その防衛のために警戒心を常にもっていたのです。国防を考えると鎖国が一番ですが、そうなると先進的な文物が日本に入ってこなくなります。中国にはシルクロードを通って、西洋の文化や情報が入ってきていました。日本は遣隋使、遣唐使を派遣して、そういった優れた文化を積極的に摂り入れようとしたのです。ただ、日本は中国の周辺諸国と違って、あくまでも対等外交を貫こうとしたのです。そのためには、日本という国が神によって建国された尊い国であることをアピールしなければいけない。そのアピールが強ければ、祖国防衛の役割を果たすかもしれない。そういった、ある意味では悲壮な決意のもと『日本書記』の編纂事業が行われたのです。
現在の日本は、世界一の大国であるアメリカと軍事同盟を結んでいるにも関わらず、中国に忖度して腰が引けています。古代の日本は、まさに孤立無援な状態で知恵を絞り、国家防衛のために『日本書記』を書いたのです。純粋に日本の歴史を記録しておこう、といった悠長な考えは二の次です。「日本」という新国号を使ったデビュー戦でもあります。歴史と国名を中国に認めさせる必要があります。そういった歴史的背景や歴史的事情を踏まえて『日本書紀』を読む必要があるのです。
先人が遺した『古事記』や『日本書紀』から何を学ぶのか。単に、昔に何があったのかという歴史的事実ではなく、先人が後世の人たちに真に伝えたかったのは何なのか、という問題意識をもって読まなければ何も分からないと思います。
『日本書紀』成立の1300年目の2020年に中国から武漢ウイルスが全世界にばら撒かれたのは、何らかの天のメッセージがそこにはあると思います。今年の1月に武漢から始まったウイルス騒ぎ。発覚した時点で中国からの旅客機を全面的に止めていれば、ここまでは広がらなかったのに、「及び腰外交」でそれも出来ず、ここまで来てしまいました。最近は半島の国との関係は落ち着いていますが、何か言われて右往左往、先人も草葉の陰からみていて歯がゆい思いをしていると思います。大陸や半島から、カネがらみ、イデオロギー攻撃はこれからもあるでしょう。なぜならば、日本という国は、中国、朝鮮から見ると非常に邪魔な所にあります。一度、地図を逆さにして、大陸の方から日本を眺めてみて下さい。彼らの心情が多少は理解できると思います。
今年は『日本書紀』成立1300年目。古代より一つの王朝を守ってきたという自負のもと、腰を据えた国づくり人づくりをする必要があります。今までの在り方を時には反省し、先人を見習って日本らしく毅然とした生き方を国も国民も追究していきましょう。
読んで頂きありがとうございました