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日韓関係をニーチェから学ぶ / 隣国とは、「善」と「悪」が反対になる

「ニーチェという人を知っていますか?」

女性

「確か、哲学者ですよね」

「ピンポンパンツです」

女性

「少し、下品ですよ」

「高尚な話をするので、最初に落としておく必要があるのです」

女性

「意味が分からないのですけど……」

「彼はフランスの実存主義哲学者ですが、『ツァラトゥストラはこう言った』という書を遺しています。改めて読み直してみたのですが、今の時代こそ、ニーチェの思想が必要だと思いました」

女性

「それを言われて思い出したのですが、何年か前にニーチェが少しブームになったことがありましたよね」

「2,3年前だと思います。『ニーチェの言葉』というのがコンビニでも売られていましたからね」

女性

「ところで、そのニーチェという人はいつ頃の人なんですか?」

「1844~1900年とあります。日本でいうと江戸時代の終わりから明治時代ですね。『ツァラトゥストラ』は1844、45年で書いています。夏目漱石は英訳でこの『ツァラトゥストラ』を読んでいます」

女性

「ツァラトゥストラというのは、どういう人なのですか?」

「ツァラトゥストラは架空の人物ですが、仏教的に言うと悟った人物です。彼が山中で孤独を楽しんでいたのですが、人間に自分の知恵を分け与え、価値創造を教えるために山を下りてくるのです」

女性

「多分、そのツァラトゥストラというのは、ニーチェ自身でしょうね」

「私もそう思います。彼は、『今まで信じられてきた価値観は、思い込みに過ぎない』と言って、いろいろなものをバッサリバッサリ切っていきます」

女性

「まるで、このブログのようですね」

「まだ、ニーチェの域には達していませんけどね。彼は「神は死んだ」と言って、神の存在すら否定します」

女性

「キリスト教を信仰していた人は、驚いたでしょうね」

「自分自身を見つめさせるための言葉だったと思います。そして、ツァラトゥストラは、神でもない、人間でもない存在、超人を説きます」

女性

「その超人は麒麟でしょうか?」

「「麒麟が来る」の麒麟ですか? そこは分かりませんが、ここからが本論です ↓」

 隣国とは、善と悪が反対になるとニーチエは言う

政治や経済、教育といった問題をいろいろな切り口で切ることによって、新たな論点が出てきたり、解決に向けての新たな方向性が見えたりします。ニーチェが民族問題について述べている箇所(「千の目標と一つの目標」)がありますので、最初にそれを紹介します。

ニーチェは隣り合う民族同士は、お互いに評価し合うなと言っています。少し長いのですが、引用します――「ツァラトゥストラは、多くの国と多くの民族を見た。そして、多くの民族の善と悪とを発見した。…<略>…まず善悪の評価が必要である。それによって民族は生きてゆくことができる。しかし、およそ存続するためには、その民族は隣りの民族が評価するとおりに、評価してはならない。ある民衆に善と思われた多くのことが、他の民族には嘲笑に値いし、恥辱とされた」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫、1967年/95-96ページ)。



最近、新年早々に韓国でいわゆる慰安婦裁判の中央地裁の判決が出ました。日本政府に原告1人当たり1億ウオン(約950万円)を支払えというものでした。時間と空間と権力関係をすべて飛び越えていますので、この判決が荒唐無稽であることは言うまでもありませんが、こういった判決を出してしまう国が隣にあることを改めて認識した方が良いと思います

ニーチェはドイツの人ですが、長年の経験の中で、隣国同士は仲が良いということはないと言っています。それを善と悪という概念を用いて説明しているのです

「隣とは遠く付き合え」という日本の諺があります。ヨーロッパも含めてどの国にとっても「真理」であることをニーチェは説いています。つまり、「善」と「悪」とが、隣国では逆になってしまうからです。

 

 善隣外交は妄想、隣国とは遠く付き合え

 善隣外交という言葉があり、日本は戦後においては少なくともそれを実践してきた国です。何故、ダメだったのでしょうか。自身の主張を確固としたものとして掲げて相手と接するならば良かったのですが、日本の外交は相手の価値観に引きずられた外交を展開し、最後は相手の価値観にどっぷりはまってしまったからです。

日本は海洋国家ですので、多くの隣国があります。海を隔ててという概念を持ち出してしまうと、それこそ世界の沿岸国はすべて隣国になってしまいますので、距離的な概念を当てはめて常識的に判断すると、韓国、北朝鮮、中国が隣国となります

「隣国どうしが理解したためしはなかった。かれらはおたがいに隣国の妄想と悪意とを、いぶかしく思っていた。…<略>…民族を支配と勝利と光栄にみちびき、隣国にとっての恐怖と嫉妬の的(まと)にさせるもの、それがこの民族にとっての高いもの、第一のもの、すべての尺度であり、意味なのだ」(ニーチェ 前掲書、96ページ)

つまり、良かれと思ってしたことは全て逆に受け止められるということです。好意のつもりで行ったことは、すべて悪意として受け止められ、それが積み重なっていくだけということです。確かに、そのように考えれば、韓国の態度は納得できるものと言えます

日本の朝鮮統治(1910~45)はどうだったのか。「日本としては、遅れた朝鮮半島を譲りうけ、40年間にわたって大規模な投資をし教育をほどこし、近代的な制度を導入して膨大な産業基盤を建設したあげく、金を受け取るどころか賠償金まで支払わなければならなかったのは、さぞかし無念なことだったろう」(金完燮『親日派のための弁明』草思社、2002年/55ページ)という同情論が出るくらい日本は滅私奉公の精神で外地経営に勤(いそ)しんだのです。

「外地の財政を日本政府は国庫補充金として支え続けた。支給を受けなかったのは統治開始10年で『黒字』に転換した台湾のみ。朝鮮は終戦まで『赤字』、日本の持ち出しである」(「台湾日本人物語」『産経』2021.1.6日付)。そのため「京城の人口は昭和17(1942)年の統計で111万人を数える。日本人が発展させたその街の周辺が現在、ソウル有数の繁華街となっていることを韓国の若者たちは知っているのだろうか」(同上)とありますが、反日教育のため知るはずもないと思います。

ニーチェに言わせれば、それはすべて掛けるマイナスとして日本に跳ね返ってきているということなのです。

 

 千の目標があったが、それを結び付けるくびきがない

千の目標が、従来あったわけだ。千の民族があったから。ただその千の頸(くび)を結び付けるくびきだけが、いまだにない。ひとつの目標がない。人類はまだ目標をもっていない」このメッセージが書かれてすでに170年余り経っています。時は進み、文明は進展しても、隣国関係については、彼の語った言葉がそのまま通用する世界が今なお存在しているのです

ニーチェが現代に生きていて、今の日韓関係、あるいは日中関係を見て何と言うでしょうか。「のめり込むな」、「相手にするな」と言うでしょう。

そして、日本は隣国と言う場合、そこに親しさを込めますが、多分大陸の国々はそうではないと思います。実際に考えて欲しいのですが、国境を境にして違う国同士が背中合わせになっているのです。現代ならば、最新技術によって近寄らないようにすることは可能です。昔であれば、そのラインを守ること自体、至難の業だったと思います。住民にはっきりと国境ラインを意識させるためには、隣国といかに違うかを認識させることが必要だったのでしょう。そうすれば、お互いの国の国民は国境ラインに近づきません。国境も守られるということです。

国境、ひいては国を守るために「善」「悪」のイデオロギーが使われるようになっていったのでしょう。確かに、世界を見渡して隣国とは大体仲が悪いし、多かれ少なかれ国境紛争を抱えています。

そういうメカニズムを知らずに、単純に善隣外交と言って無防備に外交交渉をすると大変な目に遭うということです。「生兵法怪我の元」、「君子危うきに近寄らず」です。何も分からないまま、外務省の言うなりに出掛けるとロクなことはないということです。外務省に相手国の工作が入っていることもあるからです。世界は、戦国時代であることを認識されたし。

読んでいただき、ありがとうございました。

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